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岡崎乾二郎氏の絵画作品について、ぼんやりと考えていることがある。ぼんやりと、というのは、どうにも岡崎氏の作品のの在り方が、クリアに単一の焦点に納まってくれないので、明解に「ここがポイントだ」と言切ることができない事を指している。何がつかめたわけでもないのだが、とりあえず一度言葉にしてみないと「ぼんやり」が本当にそのまま混沌に流れてしまいそうなので、txtにしてみる。
岡崎氏の絵画において使用されているのは、もちろん絵の具だ。しかし、それは同時に「絵の具ならざるもの」としても感知できる。それは例えば粘土のようにも見えるし、何かパテやアイスクリームのようなものとしても見えてくる。南天子画廊で見ることのできた新作絵画でもわかるが、それはまず、立体的とも思える厚みを持っている。また、個々のタッチが独立していて間に綿布の地があることから、色面というよりは個物として見えてくる。児童用の鮮やかな色彩をもった粘土が市販されているが、それらで造形されたモノが、空中に浮いて散らばっているようにも見える。もっと違う角度からみれば、それは任意の1点から開始された、ある種の関数の幾何的展開のようにも見える。
使用されているのがアクリル絵の具であり、そこに透明ジェル等のメディウムが添加されていることも、それが「絵の具ならざるもの」として見える理由があるのかもしれない。それはいわゆる絵の具というよりは、樹脂としての様相が強い。マニキュアや美容クリーム、あるいは濡れて軟化した高級石鹸のような質感も想起される。これが本当に粘土であったり、あるいは荒唐無稽な言様かもしれないが、純粋に抽象的な幾何であったりしてくれたならば、話は単純になる。我々は粘土を見て粘土だと思う、あるいは幾何的図形の展開を見て関数を理解する。そこになんらズレはない。ちょっと強引に言ってみれば、岡崎氏の絵画が「絵」であることを忘れてしまってもかまわなくなる。事実、岡崎氏の作品は、絵画の、いわゆる絵画性、ペインタリーな絵っぽさから限り無く強く離床しようとしている。キャンバスの背面に足された、彫刻における台座のような木枠、下地の塗布されない生の綿布、そこに染み込まずに乗っている、厚みを持ったアクリル樹脂。これらが岡崎氏の絵画を「絵っぽく」なくしている。
岡崎氏の作品は、決定的に実物=オブジェクトを現場で見ることを要請する。単純に言って、印刷物やwebの画像では、岡崎氏の作品は理解できないのだ。「絵」は「平面」であり、「平面」であることは印刷物やモニタの画像とも共通する属性だ。このことは「平面」に還元されてきた近代絵画のある種の盲点であって、人は時として、印刷物(あるいは画像)に複製された絵を見ることで、何かある程度その絵を見た気になることができる。実際、近代絵画批評の起点にあったボードレールは、サロンの絵画作品をカタログに基づいて批評したという話もある。そして、ある水準の絵画は、印刷物(あるいは画像)で見ても「良い」(あるいは「悪い」)と判断できる。村上隆氏の絵画作品は、分かり易い対比物となるだろう。村上氏の、主に1998年くらいから2000年くらいに製作されていた最良の作品においては、その大きさや、徹底的に工芸性を追求された表面が、その図像/映像的像とあいまって確かに「実物を見なければいけない」といいえる質を獲得していたが、つまらない作品においては、図像的絵柄だけが問題となってしまっていて、印刷物や画像を見ても代替できる、あるいは下手をするとそういった各種メディアを通じて見た方が「良い」とすら思えてしまう事態に陥っている。スーパーフラット、というようなものはおうおうにしてそのようなイラストレーションに容易に転化するという特質を持つ。だが、岡崎氏の絵画は、けして成功しているとは思えないものであっても、そのような判断をするためには、必ず実物=オブジェクトを見なければならない。それはどうしたって「図像」には転化しない。
しかし、あるいはだからこそ、と言ってもいいが、岡崎氏の絵画は「絵」であり、そこで扱われているのは「絵の具」なのだ。正確な言い方をすれば、「絵」を見ながら「絵ではないもの」が浮かび上がってしまい、「絵の具」を見ているのにそれが「絵の具ならざるもの」に見えてくる、という経験がなされるのが岡崎氏の絵画作品だ、と言えるかもしれない。そんなことは絵画の歴史においてごく普通に行われてきたことだ、というのは簡単かもしれないが、危険でもある。絵画が平面に還元されていくなかで、平面がただ平面であることや、絵の具がただ絵の具であることを示す作品がヘゲモニーを持った。これらはまだメディウムというものに自覚的だったのであって、近年の世界的な具象絵画の広がりは、メディウムへの感覚を抑圧、というよりは忘れ去ったかのようでもあり、ただただ図像的作品、言い換えれば印刷物や画像であってもいっこうにかまわない作品を増やし続けている。
だが、僕が考えたい問題はもう少し違ったところに有る。例えば岡崎氏の作品から幾何的なものだけを抜出してしまっては、肝心なところが抜け落ちるだろう。同様に、そこにある立体/空間だけを抜出しても、「形態」だけを抜出しても、地と図の「関係」だけを抜出しても、それらは「語り易い」ところを語っている事になってしまう*1。「絵」を見ながら「絵ではないもの」が浮かび上がってしまう、というのは、反転させれば「絵ではないもの」が感受されながら、しかしそれはあくまで「絵」なのであり、「絵の具」を見ているのにそれが「絵の具ならざるもの」に見えてくるというのは「絵の具ならざるもの」を見ながら、やはりそれは「絵の具」なのだ、ということになる。離陸するためには陸が必要なのであり、飛翔というのは地面との関係においてある。
僕の頭の中にあったことはここまででだいたい文字にした。なぜこんな事を急に言い出したのかと言えば、今回の岡崎氏の個展の絵画作品に、僕は意外なくらい「ペインタリー」なものを見た気がしたのだ。そして、それは別の画家を想起させた。岡崎氏の絵画についての感想でよく聞く「おいしそう」という言葉を、僕は前回の中村一美氏の個展で感じている(参照:id:eyck:20050615)。中村氏が単純にペインタリーな画家ではないことはもちろん強調されるべきだが、しかし、彫刻家という側面を持つ岡崎氏とは違って、中村氏は圧倒的に「画家」としてあると言えるだろう。例えば中村氏の作品には「染み込み」があり、絵の具の混ざり合いがあり、伸びやかなストロークがある。それは確かに「絵画的」言語であって、一般的に中村氏と岡崎氏とは異質な文脈で語られてきたような印象がある*2。ここで注意しなければならないのは、岡崎氏を「絵画的」な画家だといいたてる事がしたいのだ、となってはならないことだ。岡崎氏も中村氏も、「絵画」を描きながら「絵画」から離床してきた画家で、その飛行経路が、どこかで一瞬交差したのかもしれない。その予感が間違いでないとすれば、その軌跡のすれ違いの美しさに、少しドキリとさせられたのかもしれない。