モネが語られていない。自分のことから言えば、このblogでもモネについてはあまり書いていない。去年行われた東京都美術館での「マルモッタン美術館展」を取り上げ、モリゾと比較した短いコメントをアップしたけれども、それだけだ。対してセザンヌマチスに関しては、2度3度とそれなりに書いている。我ながら変な話だと思うけど、好き嫌いの話をすれば、僕はセザンヌよりもマチスよりも、どちらかと言えばモネの方が好きなのだ。見る機会がなかったわけではない。ポーラ美術館でもブリヂストン美術館でも、モネは見ている。けれどもそういった時でも、僕は他の画家には触れていながらモネについては単独で書いてはいない。


書物や、あるいはwebでのtxtを見回してみても、どうしてかモネに対する言説は少ない印象がある。モネは重要な画家ではないのだろうか?そんな事はないだろう。多少でも取り上げられる時があれば、それはセザンヌに劣らない大きな存在として扱われる。それなのに、モネの「書かれ方」は副次的なのだ。何かの枠組みが僕を規制しているのだろうか。


しかし、さしあたって僕が興味があるのはモネの作品だ。モネと言って思い出すのは「睡蓮」の連作だが、ポーラ美術館で見ることができた作品を考えてみる。まず大きさがある。多くの連作の中でそのサイズもまちまちなのだけど、全体として人の視覚を覆うような「拡がり」がある。次に、絵の具が「置かれる」のではなく「塗られて」いる。へりではキャンバスの地が覗くことがあるが、ほぼその画面は塗り込められている。また、とくに水面の表現において、なだらかな色彩のグラデーションがある。絵の具の「混ざりあい」もあるが、重ねられたタッチの端がかすれることによって下の色彩が覗き、くっきりとした輪郭を描かず連続した階調が生まれる。


モネにとっては、絵の具は「伸びるもの」であり「重ねられる」ものとしてある。また時にそれは「混ざるもの」でもある。色彩の鮮やかさを保つには混色はさけられるべきというのが一般的な理解だが、たとえば大聖堂の連作において、モネはその原則を放棄する時がある。また、画面内部に要素が少ない。睡蓮の連作であれば、水面、浮かぶ睡蓮、前景にある植物くらいだ。明度のコントラストは大きくなく、ある一定のトーン、マチエールが画面を被っている。要素が少ないというよりは、例え多くのものがあったとしても連続した調子がそれらを繋ぎ、結果的に個物が個々に断絶しないといった方が正確かもしれない。一方で、なだらかなグラデーションをもった水面に浮かぶ睡蓮の葉が、ややくっきりとしたタッチで描かれ、文字どおり「浮いている」ように描かれることもある。フォトショップなどの画像編集ソフトでのレイヤー的な在り方とも言える。


モネにおいて主題となるのは、水であり、空であり、植物であり、大気であり、太陽光であり、時間だ。それらは「うつろいゆくもの」であり、確固とした形態がないものだと言える。輪郭のないもの、と言った方がいいかもしれない。だが主題が上記のような絵の具の扱いを要求したのだろうか。絵の具を伸ばし、重ねていくことがある主題を呼び寄せたのだろうか。この二つは作用と反作用のようなものではないか。「絵を描く」とはまさにそのようなものの筈だ。描く所作、モネのタッチの在り方が水面や空にモネを向かわせ、同時に水面や空を見て行くことがモネのタッチを喚起したように思える。この事は意外に重要で、モネの絵が「塗り込められて」いながら、どこか閉息感がなく、呼吸しているように見えるのは、外気や外光を常に参照しているからかもしれない。


「連続」するものは「分解」できない。言ってみれば「分析」に向かない。もちろん、絵は分析されるために描かれるわけではない。ただ、良い絵は「なぜ良いのだろう」という検討を招きよせる。そして検討の過程で、「言葉」になる要素が発掘/発見/発明され、語られてゆく。モネの絵画は、あまりに「絵画でしかない」のだろうか。僕はマルモッタン美術館展での、モリゾとモネについて、「描ける絵」を描いたモリゾと、描くことの不可能性に向かい合ったモネ、という言い方をした(参照:id:eyck:20040203)。モネを考えるならば、描くことの不可能性/書くことの不可能性に立ち会わなければならない。少なくとも、モネに惹かれているならば、僕はもう少し、モネを考えなければならない。当然、考える、というのは、書くことであり、描くことだ。思考とは、書きえた=描きえたところにだけある。かけたものだけがみえたものなのだ。