森美術館杉本博司展を見てきた。この展覧会には大きくわけて2種類の「写真」が展示されている。一つは「偽物」だ。縦の大判のプリントにほぼシンメトリに撮影された数理模型は、もちろん近似値のモデルであって、いわば数式の「偽物」となる。ジオラマを撮影したものは、照明や焦点距離が工夫され、まるで実際の風景を古めかしく撮ったような仕上がりを見せる。サイズがむやみに大きくなく横構図であることも、「風景写真」の概念に納まるフォーマットとなる。


蝋人形を撮ったものは、古典絵画の肖像画を研究したとの説明が付され、文字どおり肖像画の偽物となる。ここでも画面の縦横比とサイズは、慎重に古典肖像画「らしく」なるよう計算されている。フェルメールの絵画の再現写真はそのまま絵画の「偽物」だが、当然2次元上に3次元空間を再現させたフェルメールの絵画は平面上で操作されており、単純にセットを組んだだけでは写真による再現は難しい。相応に「嘘」がつかれている筈で、ここではいわば「偽物の偽物」が撮影されている。等伯の松林図は、皇居の松をグレーの背景にピントを大きく外した茫洋とした像を写し、それを並べることでの再現されているが、つなぎ目の、やや無神経とも思える不連続さは、シニカルな印象を与える。


対して、もう一方では「実物」が撮られている。海と映画館のスクリーンを撮影したものは、極端な長時間露光で定着されている。海面と空だけがトリミングされたシンプルな画面だ。打ち寄せる波と変化する雲が解放されたシャッターによってぼやけている。映画館のシリーズは、上映時間中開かれたシャッターによって、暗い劇場に真っ白く光るスクリーンだけが輝き浮かび上がる。三十三間堂の膨大な仏像群を巻絵の形式に納めたものはくっきりと撮影されているが、やはり切れ目が目立ち、何か同じショットが反復されているような印象を覚える。有名近代建築を捉えたものは無限の倍という焦点距離が設定され、蜃気楼のような像となっている。「偽物」のモチーフも併せて、全ての作品がモノクロで撮影されている。プリントは精緻で、ことに黒の質感は厳格さを感じさせ、ビロードのような触感を感じさせるものとだ。これらがパネル張りされ、画像というよりはタブローのような物質感を喚起させる。


「偽物」を撮影したものは、徹底して「正しく」撮られている。ピントは正確に合い、ブレのないシャープな像が古典的で安定した構図に納められている。数理模型などは、宗教的モニュメントのプロパガンダ写真のように荘厳に撮られる。指向性のはっきりした照明によって表面の傷まで強調された表面は、強くその実在性を主張している。対して「実物」を撮影したものは、逆にその実在性が明瞭には捉えられないように撮影されている。長時間露光や焦点距離の操作によって像はぶれ、あるいはぼやける。映画館の真っ白にオーバー露光した画面は実在感を失い、無人の客席やドライブシアターの背景に映る天体の軌跡によってファンタジックなものとなる。三十三間堂の仏像群は、反復されるプリント、その切れ目によって「本当に仏像を全て撮ったのか」という疑念を抱かせる。


杉本博司展での写真作品には、極端な言い方をすれば「何も写っていない」。迫真的な写真は偽物であり、実際のものは偽物のように撮られる。この作品を見るものは、「写っているもの」、すなわちイメージにたどり着けない。正確に言えば、辿り着いた「イメージ」はずらされ、操作され、どこにもないものとなっている。観客が見たイメージは「ない」。すなわち、杉本氏の写真には何も写っていない。杉本博司展の作品には完璧なまでの対象への無関心がある。「正しさ」を表象する数学のモデル、人形やジオラマを「本物みたく」撮ることによるズレの顕在化、評価の確定している有名近代建築、日本の古典宗教美術などといったものの羅列は、言ってみれば杉本氏がコンセプチュアルアートやミニマルアートの枠組みから導かれたモチーフを選択しているだけであって、対象それ自体には全く興味を持っていない。


対象の不在、イメージの不在が、しかし「写っている」とすれば、そこにあるのは「光」だけだと言っていい。もちろん「光がある」というのは抽象的な言い方なのであって、そこには極端に精緻な「プリント=写真」だけがある。写真が、いわば「イメージ」を捕らえるものだったとして、そのように撮られた写真からは、人は「写真」ではなく「イメージ」を感受する。写真からイメージを排し、写真だけを提示する、などと言う事は簡単だが、実際に写真からイメージを排することは厳しい困難を伴う。像がなければそれは写真とはならず、像が写っていれば写真は消えてしまう。あたりまえだが、真っ白に感光した印画紙を提示したのでは、それは写真ではなく「印画紙」でしかない。単なる印画紙ではない、写真が、写真単独として成り立つにはどうしたらいいのか。近代美術の流れ、シュルレアリズムにおけるソラリゼーションやフォトグラム等の、暗室の中での実験的な試みは、しかし抽象的な「模様」、すなわち「像」に結果的に帰着した。杉本博司氏の作品が捉えようとした「写真」は、対象を写すことによってしか得られないある質、モチーフとカメラとフィルムと印画紙によって成り立つ「光の質」であって抽象的な模様ではない。


そのために、杉本博司氏の作品においては、対象の無視と反比例するかのように徹底した対象の操作が行われる。実在の「像」はそのリアリティを排除され、積極的に「偽物」、しかも「偽物という像を結ばないような偽物」が選択される。像を撮りながら、その像そのものには決して辿り着かないような幾重もの現実的、観念的迂回路がはり巡らされ、視覚という生理と形式、観念の全てにトリップがしかけられる。杉本氏はカメラという機構を追い詰めるが、しかしそこで問題となるカメラは「光を捕らえる」という、しごくシンプルなシステムとしてのカメラであって、それを逸脱するような、モノとしてのカメラへの執着は見せない(逆を言えば、原理的なカメラ/カメラの原理性には執着するだろう)。また、フィルム現像や印画紙へのプリントには、工芸性を極めるような注意を払う。「像」を遠ざけ、「写真」にだけ到達するために、ありとあらゆるもの(モチーフやカメラ/フィルムといったモノから、歴史、概念というったもの全て)が動員される。しかし、それらの迂回路は、企ての困難を反映させるように巨大化し、やや息苦しくなっている。等伯の松林図の「偽者」などは、キッチュ寸前と言える程失敗している。


写真そのもの、像ではない写真という形式それ自体に、比較的ストレートに向かい合っているのが、室内に角度を変えた壁面を立て、光の反射角の差分を定着させた作品群だ。C1015といった記号だけで題されたプリントは、像を排するために仕掛けられた観念の罠が肥大化し、過剰に観客を解釈の渦に巻き込むような他の作品にはない清明さを見せる。最も優れた写真は間違い無くこのシリーズであって、何か神話的ロマンティズムを喚起しかねない「代表作」群ではない。


この杉本博司展では、人は写真作品以外のものを見る必要は無い。暗くされた室内、無意味なスポットライト、現代音楽家に作曲させた「効果音」などに注意をはらう意義はまったくない。その展示の「演出」は、美しいというよりはグロテスクであり、まかり間違って「世界的アーティスト」などという「キャッチフレーズ」を支えることに参画してしまう愚を犯してはならない。作品は作家の自己演出の奴隷ではない。呆れる程精密な展示は作品にのみ奉仕すべきであって、この展覧会の演劇的エフェクトは邪魔でしかない。そんな中でも軽快に見えたのは上記の室内の壁面の作品だったと言える。


●杉本 博司:時間の終わり