レントゲンヴェルゲ ヴァイスフェルトで行われている「MAX HEADROOM」展での内海聖史氏の作品について。


縦240cm×横340cmのパネルに画布が張られ、そこに油彩で描かれている。描かれているというよりは、絵の具が数ミリ程度と思える小さな円形に圧着され、その連なりが画面を被っている。色は褐色あるいは緑のようにも見えるが、一見して焦げ痕のような黒い印象を与える。子細に見ていけば暗い色の合間に、鮮やかな青やバーミリオンのような色も覗く。円の連なりは強い力で絵の具を押さえ込んでおり、押しつぶされた絵の具が円の周囲で立ち上がっている。それが苔や地衣類が微妙に伸び上がりながら増殖/繁殖しているような画面を作り上げている。


円は画面の所々で切れ目を見せ、構図左下にもっとも大きい抜けがある。そこからは画布が覗き見えるが、画布と圧着された絵の具の間に、やや薄くとかれた絵の具のしみ込みがあることが窺える。順序としては、パネル張りされた画布に溶かれた絵の具が染込む層があり、その上に断面が円形の細い棒状のものでやや粘度の高い絵の具が押し付けられていると思える。その粘度の高い層にも一部には油が滴った跡がある。


この作品は、会場の壁面を計測し、そこに当てはまるように作られている。縦に長い会場の狭い方の壁面の四方から、数センチだけ隙間をあけて設置されたパネルは、その限り無く展開していくような画面が、会場の直方体によってトリミングされているような効果をあげる。画布の地と、絵の具の図は「たまたまこうなった」かのようにあり、作品自体は上下逆であってもかまわない、あるいは全く違う「図」でもありえたかのように感知される。画面のほとんどを覆う絵の具の質感、また壁からやや突き出て設置されたパネルは強い存在感があり、けして空間が抜けていくような窓のようなあり方はしない。むしろ心理的な圧迫感のある、実際の壁よりも「強い壁」として空間を塞いでいる。


内海氏の関心は絵の具という物にある。この作家がくり返し発する色彩という言葉が、絵の具を指していることは既に藍画廊での展示で配付されたパンフレット(石川健次氏)によっても指摘されている。しかし、内海氏はけして絵の具を絵の具のまま提示しない。必ずある操作、技術を介在させた上で画面に定着する。去年のMACAギャラリーの個展では曲面の壁に沿うように縦4m、幅17mという巨大な作品を展示していたが、そこで内海氏は、加工した筆によって縦のタッチで正円を生み出すという技術を通して、絵の具を広大な画面に配置した。今回の展示では画面はやや小さくなったが(それでも十分大きい)、まるでその画面の縮減を乗り越えるかのように円が小さくなり、タッチも「筆で描く」のではなく「細い棒で押し付ける」という転換をみせた。そのため密度はさらにあがり、森の葉の横への連なりのようでもあった昨年の作品に対し、鉱物的なテクスチャーと上下左右すべての方向に伸びていくような広がりを見せている。


絵の具は、絵の具のままでは、内海氏にとっての「真の絵の具」にはならないのではないかと思える。人がたとえどのような可能性をもっていても、そのままでは何も生み出せず、ある体系的な訓練と技術の収得を経なければいかなる「出力」もなしえないように、内海氏は絵の具の可能性を引き出すために厳格な訓練を絵の具に、そしてそれを扱う自らの手に課している。その訓練は、内海氏が語る「色彩=絵の具」の豊かさに反比例するかのように貧しい。ただひたすらに画布に円の痕跡を打ち込み、それだけで大きな画面を踏破していくという「貧しさ」によって、逆転的に絵の具の「豊かさ」を引き出していく。


この事だけを捕らえるなら、それを絵の具へのフェティシズムだと言うことも可能かもしれない。だが内海氏は絵の具に溺れない。絵の具と自身との距離をゼロに近付けていくような描き方をしながら、同時に内海氏はそのような絵の具を遥かに遠いところから眺めるような視点もあわせ持つ。会場の物理的な寸法をミリ単位で計り、自らが「鍛えた」絵の具がどのように光りを反射していくかを冷徹に見据えている。内海氏のこのような態度は時にマイケル・フリードが批判したようなシアトリカルな美術、観客への演劇的演出に依存したインスタレーションへと氏の作品を落とし込むかに見える。だが、くり返すように超越的な視点で絵(の具)を見ながら同時に絵(の具)そのものに埋め込まれるような製作を続行するという、極端な分裂が、内海聖史氏の絵画に作品単独で自立してしまうような強度を与え立ち上がらせてしまう。事実、サイトスペシフィックなものとして製作された筈のMACAギャラリーの作品は、大阪の別会場でも展示され、そこで問題なく成立してしまったようだ(筆者は未確認。会場に置かれた資料から窺える)。今回の作品も、他のどこに置かれても、あるいは特定の文脈に合致しないどのような人に見せても、まず間違いなく成り立つだろうと思える。


もしかすると氏の作品に最も驚いているのは本人ではないかと思えるかのように、内海氏の作品は、作家の隙のないコントロールの結果そのコントロールを離れて屹立している。内海氏はたしかにある想定、観客への効果を想定しているが、実際に作品が喚起するのはその想定を超え、ズレてしまわざるをえない「強さ」だ。その強さは作家本人すら手の出せない、いわく言いがたいものとして立ちあらわれてしまう。その言い様のないものを名付けるならば、それはインスタレーションでも空間美術でもない、「絵画」としか呼びようのないものなのではないかと思えた。


●MAX HEADROOM