レントゲンヴェルゲの入っているビルはギャラリーコンプレックスになっていて、MAX HEADROOM展以外にもいくつか展示を見ることができた。その中で印象的だったHiromi Yoshii Fiveでの奥村雄樹氏の映像作品について、少しだけ書く。


Hiromi Yoshii Fiveでのこの展示は、雑居ビルの階段の一番上、屋上に出るための出口のある踊り場にプロジェクターを設置し、対面の壁に映像を写すという、いかにも都内のペンシルビルの狭い空間を工夫したものなのだけど、今回の奥村氏の作品は、まず最初に雑然としたアパートらしい部屋の中に、「ヒュッ」という効果音とともに突然黄色い風船が飛び込んできてしばらく静かに浮いており、少ししたら唐突に「ヒュッ」と風船が飛び出して行く。場所が変わって(今度は屋外だ)、そこにまた風船が「ヒュッ」と現れ、しばらくそこで風に揺れていたと思ったら、同じように音とともにどこかに飛んでいく。以下、郊外の河原や都心のビル街、どこかの誰かの家の物置きの前、庭に生えた木の下と、次々と違う場所に音とともに黄色い風船が現れ、微妙な間を感じさせる時間ゆらゆらしていて、少し油断したあたりでこつ然と次の場面に切り替わる。


「あの場所」にあった風船が、しかし今は「この場所」にある。「この場所」にあった筈の風船が、いつまでもそこに漂っていそうな雰囲気をもっていたのに、それは突然「ここでないどこか」に行ってしまう。こんな感覚は、極めて微細であるにも関わらず、時に不条理な謎としてあらわれる。例えば恋人とデートしていて、帰る相手を駅まで送り、自分は来た道を引き返すとき、ついさっきまで一緒に「ここ」を歩いていた人が、今は「ここではないどこか」にいて、自分は一人きりである、ということをふと実感する場合がある。そこにはおかしな事はなにもないのだけれど、どこか不思議な感覚として感受できる。それは、一人が淋しいとかそういう感情とは別の、もっと何か「今」と「ついさっき」の、些細かつ決定的な断絶が(普段一人でいる時は何とも思わないのに)露出してしまったという“変な感じ”なのではないか。この作品は、そのような“変な感じ”を扱っていると思えた。


もうひとつ考えさせられるのは、「飛んでいった」風船と「現れた」風船が同一の物、という保証は何もないのだけれど、それを見るものは「あの風船が、あの場所からここに飛んできた」と感じてしまうという点だ。「黄色い風船」は色も形も同じもので、印がついているわけではない。しかし、というかだからこそ、それが「同じ」ものだと思ってしまうのだが、現実にそれが同じ風船の移動だと信じてしまうのは、消え方と現れ方の、映像上の処理によるものなんだろうと思う。しかし、それはあくまで「そう見える」だけであって、前の場面の風船と次の場面の風船が同一かどうかは、やはり何も裏付けがない。むしろ現実的に考えるなら、複数の場面で撮影されている風船が「本当に」同じものである可能性は低いだろう。そう思ってみれば、この映像は先に僕が書いたようなものとは全然違う様相を見せ始める。


いずれにせよ、この作品のキモは風船の消え方と現れ方に集約されている。この一瞬の場面のキレが、奥村氏の作家としてのセンスになるのだろうけど、実際には「センス」なんていう簡単な話ではなく、この刹那の効果の為に奥村氏は相応の技術的追求をしているのだろうから、地力のある人なんだなと思わずにいられない。最後のシーンがこの作品のある、Hiromi Yoshii Fiveのビルの屋上に出る空間で、開け放たれた出口から風船が飛んでいって終わり、というのは少しあざとい気もしたけど、そんな所も含めて面白い作品だと思った(なんて書いていたら、昨年のオペラシティ・アートギャラリーのタイム・オブ・ライフに出品してる人だった)。


●奥村雄樹 トランスファー