中沢けい「首都圏」

個展の会場にいる間に、中沢けい「首都圏」を読んだ。思いのほか、つるつると読めた。その理由はおそらくイメージにある。この小説に出てくる様々な「首都圏」の地名、北千住とか高円寺とか澁谷とか、環七とか首都高速とか練馬インターとかいう固有名詞が持つイメージ、自分が何かの折に見たり歩いたり通り過ぎたりしてきたそれぞれの土地や場所の記憶が、「言葉」を消去していって、「言葉」を追わなくても「分かる」気がしてしまうのだ。


この小説は多くの部分で場所、河川や車道やある土地の起伏や空間を描写していくことでできていて、その微細な写実する言葉だけを追っていくと、ある種の息苦しさを覚えるのだけど、そこにポン、と「吉祥寺」という言葉が出てくると、細かい言葉の連なりを無視しても「あ、吉祥寺ね」という感じで、自分が知っている吉祥寺の記憶で了解してしまい、言葉が伝えようとして伝えきれずにいる、しかしそれでもなお描写しようとするある「土地」をスルーしてしまう。だから、こういった「首都圏の固有名詞のイメージ」を持っている人なら「読みすすめる」ことが比較的容易かと思う。


しかし、読みすすめることができるのと、「読める」ことはまったく別だ。中沢けい氏がこの「首都圏」で書き重ねているのは、北千住や澁谷の「イメージ」ではない。単純に言って、首都圏に住んでいる読者が個々に知っているかもしれない「北千住」は、中沢けい氏が描写している「あの北千住の、あの路地やあの部屋やあの商店街」ではない。読者が知っている(かもしれない)北千住には、その「あの」の部分が抜けている。


自分が歩いたり目にしたことのある首都圏のイメージを重ねるようにして読んでしまうと、この小説が立ち上げようとしているものが「読め」なくなってしまう。中沢氏が連ねていく言葉が、事後的に喚起してゆく何事か、それは視覚的イメージというよりはむしろ、匂いとか温度とか、空間的距離感とか時間感覚とか、そういったものをふんだんに含んでいるのだが、とにかく言葉の連鎖を読むことで、その言葉が自分のからだに作用してひき起こす様々な「できごと」を感じていくことが、この「首都圏」という小説を「読む」ということで、そういう意味では、実際の首都圏を知ってはいない人の方が、この本の読者としては良いのではないかと思えた。


言葉の連なりが、それを読む者に与える「何事か」。「首都圏」という小説の言葉がある連続の仕方をした時、それは読む者にふと不定形な力を及ぼす。そういった事は、この「首都圏」を読んでいるとたびたび見舞われる感覚で、それは自分がこの本を読んでいる状況から、ちょっと浮き上がっていくような経験だ。誤解されるかもしれないが、それは「感情移入」とかではない。少し読んでみればわかるが、この小説は「感情移入」しようと思うとたちまち混乱させられる。なぜなら人称が一貫しておらず、また文章の途中で「語り手」だと思っていたある「人」がいつの間にか消え失せて違う人が浮上してきたり、その人がまた消えて違う人物にいつのまにか入れ代わっていたりする。「女性」の部屋に来た「男性」が出てきたりするのだが、その文章は「女性」が語っているように見えていつの間にか誰でもない「第三者」の視点に移っている。あれ?と思っていると、文章は男性の視点で叙述され始める。そしてその叙述は唐突に終わる。土地の固有名詞はたくさん出てくるのに、登場する人物には名前が与えられていない。


だから、「首都圏」は、ある人物の内的な心理や感情の移り変わりを、首都圏という土地の起伏に投影して成り立っている小説ではない。そのような読み方をすれば、迷路にはまり込んで何がなんだか分からないままになってしまうだろう。かつて中沢氏はTV番組で「散文というものが表現できることをやりたい」「文体、というと何か外にあるもののような気がするけれども、それがないとダメだ」というようなこと(何しろ昔の記憶なのであやふやなのはすいません)を発言していたけれども、この「首都圏」は、まさに「散文」というものが、それを読む人に何を起動させるのか、それを見極めている。


後半3章で、急に作家を直接想起させる文章の書き手が「かろうと」という言葉にやたらとこだわりはじめて鴎外全集を読み始めたり(ここで読者は文章を読む、という文章を読むことになる)、その書き手の年令に沿うように、社会的年表を追うことになったりするのも、やはりそのような「言葉」「散文」がどういった事態をひき起こすか、という中沢氏の興味の結果と思える。散文、文章というものだけに何度もにじり寄っては離れ、離れてはまた接近してゆく。それは時にエッセイのようにも、物語りのようにも、詩のようにもなる。そして、小説、というものにも「似てくる」。だがそれは、「何」になるかは想定されていない。


こういった文章が、絵画にも「似ている」と言ってしまうのは、僕自身の興味にひきつけすぎていて危険だろうか?例えば様々なタッチの積み重なりが「何事か」をひき起こしていく、あるいはいくつかの色の組み合わせが「何事か」をひき起こしていく、というのは、近代の絵画において重要な骨格だ。絵の具はチューブから出しただけでは単に絵の具だが、それを組み合わせていく、あるシンタックス(文法)によって関係付けていくと、そこに何事かが発生する。やがてその関係性だけが自然の対象物から離れて自立していけば、それは抽象絵画になる。中沢けいの「首都圏」では、地形や気象や室内や人物が描写されながら、その描写する「言葉」がやがて対象物から離れて自立し、「散文」だけがつくり出すことができる「何事か」を構成し始めるような感覚がある。