三鷹市美術ギャラリー/Colorful温泉 絵画の湯展(3)(最終回)

さんざん高松次郎について書いておいてそれはどうよとは思うけど、僕が一番好きになって会場出入り口で行われている「投票チューブ」に色玉を入れた作品は、辰野登恵子氏のリトグラフ「May-25-91」だった。1991年の作品で、196cm×130cmの大形版画である。大きな緑の楕円が画面やや右寄りを縦に貫くように描かれ、その円周の内側に沿うように、青い四角が配列されている。緑の下には朱と紫の層が覗きみえる。画面向かって右よりにはやはり朱と紫の上に青い丸が葡萄の房様にいくつも描かれている。左右の図が共に、ふと人のシルエットにも見える。


このリトグラフの魅力の1つは「ぐりぐり描く」感じが重くならずに定着している点にある。楕円に沿って配された四角形の内側が、ダーマトあるいはクレヨンのようなもので「ぐりぐり」塗られているのだが、これも完全に塗りつぶすのではなく適宜隙間があり、それが視覚的な気持ちのよさに繋がっている。四角や円、曲線といった幾何的な線によって、「ぐりぐり描く」行為が単なるエネルギーの放出だけで終わってしまわないように構成されているのだが、この絵ではそのような理性的な「構築」が、むしろ「ぐりぐり描く」楽しさを繰り広げるためのフィールドのような役割をになっている気がする。


他にも左の葡萄のような円の連なりは、絵の具によって「塗られて」いるのだけど、これもわずかに垂れが見られるように「丸く塗る」楽しさの反復の結果のように見える。こういった「描く楽しさ」だけでうめつくされてしまうと、画面は息苦しくなると思うのだけど、紙の面積の多くの部分はむしろ薄い層によってさらりと描かれているような色面で、絵全体が呼吸しているような空気感が感じられる。


さらに、色彩の魅力がある。同様の構図は、辰野登恵子氏の油彩作品でも見られるが、油彩ではその絵の具の重厚な積み重なりが、なんというか「質量のある光り」を発していくことになる。だけど、この作品ではリトグラフという技法の性質上、インクは一定の厚み、しかもフラットな厚みしか持てない。そしてその「薄さ」が、ある軽快さ、ふわりと作品が浮遊しているような感覚を形作っている。そしてなお、やっぱり辰野登恵子の絵だと思わせられるのは、その独自の発光するような色彩が、このリトグラフでも見ることができるからだ。その効果は、具体的には、明度が低く彩度が高い色彩で画面を覆い(紙の白が画面内になく、絵柄の外にも余白がない)、濃いながらも鮮やかな青の背後から、ややコクがあって明るい微妙な色合いの朱や紫の色が覗き見えることで成り立っていると思える。


辰野氏における色彩のあり方は、油彩の場合絵の具の厚さを必要とすると思えるけど、ここではリトグラフで軽い感じであっても、あの膨れ上がるような色の輝きを実現している。刷りを本人がやっているかどうかはわからないが、とても新鮮な刷り上がりで、見ているだけでこちらが充実してしまいそうな感じがした。


この展覧会では他にも気になる作品がけっこうあるのだが、全部は書ききれない。昨日はちょっと悪口めいたことを書いてしまったが、中西夏之氏の油彩作品は、相応に緊張感があったと思う。赤瀬川原平氏の「公務のドローイング採集」等があることで、昨日の高松次郎を含めたハイレッド・センターの3人の作品が展観できる。宇佐美圭司氏の絵画作品も、人型が幾何的な世界に配された作品なのだけど、絵の具がフラットにならずそのタッチのゆらぎが初期のオールオーバーな作品を彷佛とさせるもので、氏の作品の中でも良い物と思えた。李禹煥氏の版画と油彩があるのも、横浜美術館の個展や今年を特徴づける「もの派」回顧の流れに興味ある人にはいいだろう。ことにステンシルの作品は、鮮やかな青が李氏のグレーのイメージを裏切っていて印象的だった。


全体に版画が充実している。駒井哲郎は人によっては代表作ととるだろう「三匹の小魚」がある。加納光於氏のはカラーのリトグラフはお馴染み?のものかもしれないが、ごく初期のモノクロ銅版画が貴重だ。加納氏のこの時期の作品はかなり見る機会が限られている。僕はこの人は黒だけで銅版画をやっていた時が一番よかったと思う。シブいのが清宮質文の木版画で、これは昔町田の版画美術館で見た時以来だった。清宮も、僕が知らなかったガラス絵の小品が見られたのは収穫だった。岡崎乾二郎氏のペインティングも良いものだったと思う。一番つまらなかったのはスズキコージ氏の変な絵で、その「変」な感じだけが妙に心に残った。山本正の抽象画はそこそこチャーミングなのに、どうして人物があんなに薄っぺらいのかが謎だった。改めて展覧会データを載せる。


●Colorful温泉 「絵画の湯」展