川端龍子展
終わってしまったけれども、江戸東京博物館で川端龍子展を見てきた。主軸となる大形の日本画はあまり面白くなかった。当時の日本画の文脈の中でスペクタクルな「会場芸術」を提起したという国内美術史的な意味もあるのだろうし、実際「スペクタクル」な美術というのはその後現在に至まで重要な潮流を形作ることになるわけだから、相応に扱われて当然の作家だとは思う。けれども、今回の展覧会に出品されていた作品に関しては、そんな「スペクタクル美術」というものが、発表された時点での社会的インパクトを超えて、時間という過酷なものを経過してから見るとまったくスカスカにしか見えない事を証明してしまうような物だった。
そんな中で断然面白かったのが、龍子が初期に生活のためにしていたという雑誌のイラストレーションやグラフィックデザインの仕事で、ことに児童向けの雑誌の双六は良かった。1917年の「軍艦双六」は海軍の戦艦が双六上に配され、そこにキリリとした眉毛のセーラー服の少年が敬礼していたりするのだが、とても鮮やかなカラー印刷で今見てもグラフィカルに美しい。「空想双六」(1919)は、当時から見た未来世界の乗り物が描かれていて、大砲の弾丸を利用したロケットとか水上歩行靴とかプロペラで自走する自転車とか、思わず微笑してしまうような楽しい内容で、復刻して出版しても十分はけるのではないかと思えた。少女向けの双六の中央に描かれた草花とかは、なまじな「会場芸術」の絵画より遥かに素敵で、この人は明らかにイラストレーターとして優秀だったと思う。
そういう意味では大作群も、時代の挿し絵として見えてくるという所はある。大正期から昭和初期へと「日本帝国」の要請に沿うように疑似神話的で物語り的な(要するにドラマティックな)作品が描かれていく。中に造船工場で働く労働者を仁王みたいに描いた絵があるのだけど、そこには国家社会主義といったフレーズをふと思わせるような「国民絵画」を描く者としての気負いみたいなものがある。しかしその気負いが、なんとも画題と狙いと技法のチグハグな「変な感じ」として現れていて、これはほとんど巨大なマンガなのではないかと思わせられる。
シニカルな意識でマンガやイラストレーションを「スペクタクル」に提出する現代美術家を龍子は遥かに先駆けているとも言える。今龍子を意識していようといなかろうと、それを反復する形でグラフィカルなスペクタクル絵画を描くものは、それが50年もすればスカスカな「たんに変な絵」に見えてくる事を理解しているのだろうか。もちろん意識的な作家ならそれを「あえて」やっているのだ、と答えるだろうけど、それでも彼等の作品が「今という時代の雰囲気」に守られている事は確かで、それが取れてしまった時に露出する(この川端龍子展の会場に漂っていたような)「寒い感じ」を皮膚感覚で把握したら、ちょっと恥ずかしくなってしまうのではないだろうか。
大作で1点、1935年に描かれた「椰子の篝火」は相対的に良い絵で、ここでは目を引く派手な色彩がなく、淡い炭1色で、南方の島で椰子の葉で焚き火?する大人と子供の群像が描かれている。「工芸的な日本画をうち破る大胆なタッチ」等が龍子の評価だったらしいのだが「大胆さ」が大味にしか見えない他の作品と違って、この絵は単純に丁寧に描かれており、それが展示の効果とかインパクトとは無縁な、普通の絵の内実として充実したものを形成している。結局、作品を時間の風化から守るのはそんなごく当たり前のちゃんとした仕事なのだということがよく分かる。
昭和20年に自宅が空襲の爆弾を受けたことをきっかけに描かれた「爆弾散華」は、ほとんどサム・フランシスみたいな絵で、とりたてて良い絵とは思わないものの、流石になにか意識の変化があったのかな、と思える作品だった。「夢」はグロテスクな遺体の入った粗末な棺の上に蝶が舞う絵で、これも画面サイズが小さく代表作と言われるものからは感触を異にしている。全体に、川端龍子は同時代の評価からずれた所にその可能性があったのではないかと感じた。