横浜トリエンナーレ/サーカスは回転したか(2)

横トリに遊びにいった当日はとりあえず泣く程寒かったわけだけど、その分空気が澄んでて、海と空がとてもきれいだった。海見ると嬉しくなっちゃうのは埼玉野郎の悲しい習性、といわれればその通り(大宮出身だぜオイラ)。でもあの透明感は誰でも気持ちよかったんじゃないかなー。ちなみに会場内はちゃんと暖房入ってました。ピカピカのストーブ見て「これも芸術?」と思っちゃった人がかなりいたと想像してみる。


●カリン・ハンセン
小さなキャンバスに描かれた、映像的風景画。この手のアートイベントで絵画は珍しいが、この横浜トリエンナーレでも「絵」はこれだけ。あ、奈良さんがいたか。ごめんごめん。
ま、言ってみれば風景画の偽者、絵画の「死体」である。なにしろ現代美術の世界では、絵画は100万回くらい死亡宣告が出ているので、いまやほとんどこの手の「死後の絵画」は伝統芸能化した。描いてる作家もどうかと思うが、チョイスする企画側が一番罪が重い。いったいいつまで「死後の絵画」は描かれ続けるのか。みんな本当は飽きてるはずなのに、「生きた絵画」を展示するのはなんとなく恥ずかしい、とか思ってるのだろうか?

状況としては「死んだ絵画は死んだ」とか「死んだ絵画は死んだ、という絵画は死んだ」とか「死んだ絵画は死んだ、という絵画は死んだ、という絵画も死んだ」とか「死んだ絵画は死んだ、という絵画は死んだ、という絵画も死んだ、とか言ってる絵画も御臨終」とか、そういうバカみたいなゾンビ叩きゲームを果てしなくやってるわけで、もうお腹いっぱいです。

※このエントリに関しては、superflat氏が異論をアップロードしている。以下を参照の事。

なお、この異論に対応してid:eyck:20051227をアップロードした。


●松井智惠
木で作られた囲いに、なんか可愛い色の布の屋根がついている。その中には液晶モニタがあって、そこには女性が横たわっていたり、画面はしに(伏せた人の)腰だけ映っていたり歩いてたり。映っていたのは作家本人なのか?確認してません。
なんていうんだろ。密やかなフェミニティというか、ある種の親密な世界を作り上げて、そこに女性の身体の生々しさを露出させる、みたいな作品。こういう小屋がいくつもあって、それぞれに異なった映像が流されている。

やはりというかなんというか、女の人が多く見てた。男性は、僕が見た時間には観客にいなかった気がする。男性にとっては、無意識に避けてしまうような何かがこの作品にはあって、実際小さな空間で見知らぬ女性と二人とかで(二人以上入りにくい)見ていると、若干息苦しい。そういう意味では効果的。かといって、女性ならこの作品に好感をもつかといったらそんな事はなく、多分この作品を大嫌いになるのも女性かもしれない。


●ワン・テユ
台の上に積み木みたいなものがあり、台に張られた弦の下に挟んで簡易的な琴を作って音を出して遊ぶ作品。他には他の作家のブースのパネルの裏に弦張ってペットボトルを挟んで同様に「音遊び」する作品。

会期も最後の最後になっていったためか、弦の状態がすごくへたってた気がする。で、全然音がよくない。張り替えるなり弦の材質を考えるなりするべきではなかったか。「音が上手く出ないところがアート」とかふざけた事言わないで欲しい。こんなもん、音が鳴ってナンボではないか。ぶっちゃけ、どう勘ぐっても出来の悪い幼稚園の遊具でしかない。

それでも一生懸命?遊んでる子供連れもいて、涙ぐましい風景だった。座敷きを設置したのはナイス。疲れたお母さんお父さんの背中が目に痛かった。


●照屋勇賢
マクドナルドとかの紙袋をパネルに(開口部が観客側を向くように)設置。で、上になる面の紙を切り抜き、樹木とかにして袋の中に折り込む。で、開口部から覗くと袋の中に「風景」が出来上がってる、という作品。

その丁寧かつ工作チックな手作業で、普通はごみになってしまうものを小世界にしてしまう手腕は「上手いなぁ」と思わせてくれる。びっくり感があって楽しい。「日常からの跳躍」っぽくて良いんではないか。なんか大人から子供まで、まじまじと見てた。


●ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー
ぽつんと置いてあるモニタにヘッドホンがついている。白く雪の積もった山を、ひたすら歩きながらとられた映像が流れている。ヘッドホンをつけると、生々しい撮影者の息遣いが聞こえて、急に自分が尾根を歩いているような錯角に陥る。

これ、技術的になんか仕掛けがあるの?そう思ってしまうくらい、本気で自分が映像/音とシンクロさせられる。多分特別なトリックはなくて、丁寧に映像を撮り音を録音し、その積み重ねでこの「歩いてる感」を作りあげているんだろうけど、そこはお見事。歩いてないのに歩いてる気がする、あるいはメディアを通して「経験した気になる」というありがちな問題設定で見てはつまらない。仮想体験によってひきおこされる、自分の感覚と身体のズレとか、体内感覚の混乱からくる自分の身体の客体化とか(要はこの作品を体験すると、映像と音を通して自分の体を観察することになるのだ)、そのへんで見たほうが良い作品。どうでもいいけど、撮影者を先導してくれる犬が最高。


●ディディエ・クールボ
板の外れたベンチに新しい木を足したり、都心の交差点のポール?だか信号?だかに巣箱を設置したりして、その様子を写真に撮る。で、大判のプリントにして壁面に設置。他にはノート帳みたいの作ったり。

だれが行ったか分からないように、ちょっとした風景への介入を行う。そのささやかな手付きが、のっぺらぼうな状況の中にいる人に心理的とっかかりを作る。

間違い探しみたいな感じ。しかし、そこで認識される「間違い」とは何か。あたりまえの風景というのは、実はある「あたりまえ」の閾値に拘束されていて、それをはみ出るものは、たとえ現実に存在しても、視覚からは排除されたりする。それを改めて提示されると、その後自分の生活に戻っても、ほんの少しのズレにも敏感になる、かも。ならないかも。


さわひらき
パネルで覆われた、真っ暗なブースで上映される映像作品。冬の夜を思わせる人気のない室内に映る、様々な影、その輪郭や稜線?に沿って、小さな(時には大きな)ラクダの影が列をなして歩き出す。ラクダだけじゃない。象とかクマ、時には鳥も。影の輪郭だけでなく、洗面台の排水口や窓のサン、階段の段差など、室内の様々な「線」に静かに現れる、終わりなき動物(の影)の歩行。壊れたオルゴールみたいな音が鳴ったりならなかったり、色彩のないモノクロ映像だったりと、えらくポエティック。

なんだか夢みたいな作品。心理的。作家さんが心理的というのではなく、観客の心理を突くのがすごく上手い、ということだ。人によっては無闇にノスタルジックになったり、急に恐さや不安感に襲われたりするのではないか。しかし、そのようなノスタルジーや不安は観客に内在していたのではなく、この作品によってつくり出されている。作り手自体はもうものすごくテクニカルに、そのような「雰囲気の醸成」に徹している。

とにかく、映像の「速度」と「タイミング」に繊細な注意が払われていて、一種の麻薬性がある。催眠術にかけられてる感じがする。好きになる人と嫌いになる人が別れそう。僕はどっちかって?ここはあえて、好きだと言ってみるテスト。つうか他のがイマイチで、このくらい完成度があるのを見ると正直ほっとしちゃうのだ。


●リチャード・ウィルソン
戸外に止められたトラック。その中にスクリーンがあり、映像が流れる。夜、トラックが現れ、このトリエンナーレ会場に停車し、荷台が開くと火球が飛び出す。その火球は無人トリエンナーレ会場内を飛び回り、最後はトラックに帰還する。荷台には中国の花火(点火すると音と光りを発しながら、伝統的な塔の形にポンと膨れる、というもの)がたくさんあって、それが次々点火する。大量に林立してゆく花火の塔。最後はトラックの荷台が閉って走り去り、最後は光る横浜のビル郡の風景。

映像が撮られた(事になっている)場所でその映像を見る。花火の塔の林立と、横浜のビル群。今この映像を見ている観客達が歩いてきた導線をなぞるように、同じ倉庫を飛び回ってきた火球。その重ねあわせとズレが主題なんだろう。ふーん。じゃーんと鳴るドラだの中国花火だのも、ナイーブなオリエンタリズムではなくて、日本にある中華街で代表されるヨコハマ、とかいうものと重ね合わされながらずれていく。なるほど。

もちろん映像は虚構で、それを見ている観客は現実なわけだけど、その「現実」という虚構性をなんとなく認識させる作品。妙に反省的じゃなく、どこかコミカルに見せる感じ。しかし、「あえて」であろうと、そこはかとなく漂うオリエンタリズムが気になり、それを笑いながら見ている自分も気になる。そこまで狙ってやってりゃ立派。


うー。ここまではそれなりに見たんだけど、あとはかなりパスした作品が多い。あと1日で終わっちゃうかな。二日に分けるかな。

それが終わったら総論に移行。するつもり。