横浜トリエンナーレ/サーカスは回転したか(3)

●ソイ・プロジェクト
いろいろやってたみたいだけど、僕が体験したのは迷路。パネルで区切られた部屋に入ると、そこにはマンガみたいなイラストが張られたトビラがある。それを開けると又おなじような部屋が。そんな感じでどんどん進む。

この進み方でマンガのストーリーが変わる仕掛けらしいのだけど、僕が面白かったのは「次の部屋の人がいなくなるまで、みんななんとなく間合いを計ってる」ということ。土曜日にいったせいで会場は盛況、結果的にこの迷路も、ずんずん進むと前の人に追い付いちゃうのだ。それを、みんな微妙に間を持たせるように次の部屋の様子をドア越しに伺う。

日本人らしい距離感なのだろうか。外国とかだとどうなのだろう。このあたりは計算されたというよりは結果的な効果なのだろうけど、ふと入ってしまった部屋に誰かがいたりすると、お互いちょっと慌ててしまうのが可笑しい。おっぱいクッションとかは行列してて見られなかった。


●ヴォルフガング・ヴィンター & べルトルト・ホルベルト
海に面した戸外に設置された、ビールケース?のような飲料運搬用のプラスチック製キャリーボックスによる「パビリオン」。

黄色いケースが目に映えるけど、本当に美しいのは中の空間だった。ピロティ状に持ち上げられた「パビリオン」には螺旋階段(急で狭くてちょっと恐い)を登っていくのだけど、12月の午後3時くらいという時間に行けたのはラッキーだったのだろう。西に傾き出した太陽はシャープにこのパビリオンを照らし出し、プラスチックの黄色が透けて輝くような場をつくり出す。ケースには穴もあいているから、そのたくさんの穴から差し込む日光も足下に揺らめくパターンをつくり出す。そして光る黄色の隙間から覗く真っ青な海。これまた「日常」にあるモノを使って異空間をつくり出す川俣正チックなインスタレーションだけど、日が沈んでから中の照明ともして外から見ても綺麗だったかな。


奈良美智graf
デザイングループgraf奈良美智のコラボレーション。ぶっちゃけ僕は奈良氏の仕事を肯定的に見られないんだけど、そんな僕でもこのブースの「完成度」を安心して見てしまえるのが横浜トリエンナーレではある。

倉庫の一角を隔離して、一度外に出ないと入れないようにしてある。で、見せ物小屋みたいに木でつくられた部屋があり、最初は沢山の穴があいた大きな箱(コンテナ?)が登場する。穴を覗くと犬の立体がたくさんある。中には穴を覗いたところに犬の顔がくっつけてあったりでビックリする事も。階段を登って小部屋に入ると、そこには応接室のような部屋と書斎らしい空間がある。壁面は奈良氏のドローイングやメモで覆い尽くされていて、書斎のほうには奈良氏お気に入りのグッズがたくさん。反対の階段を降りるとそこは小さなギャラリーになっていて、比較的大形の絵画が置いてある。

もう一個の階段を登ると倉庫の戸外へ。そこに仮設されたもの見台というかベランダはやっぱり木材で組まれていて、その木に無数の落書きが。これ観客が描いたのかな?そのわりにチョークもペンもなかったけど。通路を通って倉庫脇に降りて終わり。通路の壁の窓に切り取られた海が新鮮。

親密な空間を作らせたら右に出るものはいない、というくらいその所作が洗練されてきた奈良美智graf。その空間に「親密さ」を感じるか「グロテスクさ」を感じるか「何ともおもわん」かは人によるけど、この美大のスーパー学園祭といった趣きのある横トリの中では、美術というものの底を抜き続けてきた奈良氏が、むしろ立派できちんとしてて保守的な大人に見えるのがコワイ。なんだか妙にしっかり描かれたタブローがあったりするし。しかしなぁ。奈良氏が大人に見えるってすごくない?つまり、日本美術の幼児化の先端を走っていた奈良美智は、ついにそのフロントを明け渡し後退したのだ。その意味では記念碑的ではある。


●マリア・ローゼン
紙風船に新聞紙を張って作ったマスクと、それをつけた人の写真の展示。

当初のマリンタワーの計画が頓挫してしまったのは残念に思う。その上で簡単に諦めずにこういった多くの人を交えてワークショップを行ったのも偉いなぁと思う。しかし、この展示ではあまりにも「単なるカブリモノ」にしか見えない。倉庫を繋ぐ渡り廊下という設定といい、もうすこしなんとかならなかったのか。作家の意図がまったく伝わらない。


●マーリア・ヴィルッカ
カニワに渡されたロープの上を歩いている、象やキリンやライオンや熊やらのミニチュア。

青い空を綱渡りする動物達が可愛い。観客の方に向かって吠えてるように見せられているライオンとか、1匹だけでちょっとおっかなびっくり足がすくんでいるように見えるヤツとか、芸が細かい。さわひらきさんが映像に出てきた動物を立体化させたのかと思ったけど、違うのね。

「だからどうした」というタイトルが秀逸。その愛嬌ある見た目の向うに皮肉の匂いが。なんてことは気にもせず、みんなバンバン携帯で写真撮ってました。


身体表現サークル
紅白のフンドシいっちょでパフォーマンスを行うサークル。この寒風ふきすさぶ横トリ会場の中庭で、マッパに近い格好でゆるーいダンスをやっていた。女性がいたのにびっくりしたけど、ちゃんとさらしを巻いていて安心というかガッカリというか。

ずるいのは、「フンドシいっちょ」だけで一定の笑いはとれてしまい、あとの中身がイマイチ練られていないことだ。「フンドシいっちょ」なら、あとはだらしなければだらしない程客は笑ってくれる。外国のお客さんの存在がこれほど恥ずかしかったモノもない。スタイルによる構図以外に見るべきところがあんまりない。お笑いに徹するなら、テレビのバラエティー番組で一定の視聴率が取れるところまでお笑いになってくれ。以前も書いたかもしれないけど、こういう人たちは美術の現場では「いや僕たちお笑いなんで」とカワし、お笑いに対しては「僕達アートだから」とかわすように見える。どのみち美術というものによりかかってる。


●岩井成昭
円形に設置された電話ボックス。突然鳴り響くベル。受話器を取ると、「お母さん」が一方的に語りはじめる。

完全にホラー。恐いんじゃコラ。受話器から貞子が出てくるかと思ったよ。しっかし、今どき電話ボックスって。数年ぶりに入ったねあの空間に。その微妙な古さが狙いどころなのかもしれないけど、やっぱりちょっとピンとこない。携帯電話になんかしかけるとか、携帯メールが勝手に送りつけられるとか、そういう風にしたほうがよかったんではないか。「古さ」で攻めるなら、手紙とか封書とかの方がまだいいだろう。

とりあえず、僕はこういう、人の心理とか妙な罪悪感とか郷愁とかを刺激して「感情」に訴えてその感情の揺れ幅を「作品」だと言い張るヤツが最高に嫌い。この術中にハマってるっぽい所が成功なんですかそうですか。


なんか終わらなかったな。もう1エントリ消化するか。とりあえず今日はここまで。