横浜トリエンナーレ/サーカスは回転したか(4)

superflat氏が、僕のカリン・ハンセンへのコメントに対し異論を提出されている。URLは以下。

うん。なるほど。有意な異論だと思う。というわけで、僕のカリン・ハンセンへの記事中にsuperflat氏のエントリへのリンクを張ることにしました。ぜひ御参照下さい。

この手の突っ込みはありがたい。他の方も、何か気付いたらバンバンお願いします。


●ヴォルフガング・ヴィンター & べルトルト・ホルベルト
飲料ケースのパビリオンを作っていた作家の、もういっこの作品。暗い倉庫内の高い天井から光る台座をつるしたブランコがいくつか設置されている。とても大きくて、ゆっくり前後にふれる。恐らくモーターでふっていると思える(自分でこぐ物ではない)。

完全にデート用マシン。カップルが大挙して並んでた。独りで乗るとちょっぴりイタタタ。僕は少し行列して挫折した。見てる範囲だと、自分でストップって言わないと係員さんが止めてくれないらしい。

飲料ケース・パビリオンはとりあえずきれいだったし、それだけで良いと言ったのだから、このブランコだって「良い」と言ってしまっても可な気がする。でも否。少なくとも飲料ケース・パビリオンは廃材というか、美的でないものを反転させて美しく扱い、空間をジェネレートするという事は最低限していたのだ。このブランコは、しっかり確認していないけど、特に素材が特徴的ということでもないらしい。だとしたら、これは純然たる遊具であってアートではない。というか、逆に言えばこれがアートならディズニーランドの方が数段優れたアートになる。

いや、いいんですよ。アートは遊び場になるべきだ、とおっしゃっても。でもそれなら、本物の遊び場と拮抗してないと。ディズニーランドが新アトラクションとしてこの作品を出したら笑い者だし、そもそも企画段階で突っ返されて終わりでしょう。結局この手の「楽しいアート」はアートの殻を撃ち破る!とか言って最終的にアートという壁に依存してるわけですよ。0点。なんだよ皆イチャイチャしてさー。


●KOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム
超巨大なサッカーボードゲーム。大の大人1人でも1つの棒を動かすのが大変。しかもプレイヤーはボード全体が見渡せない。そこで観客席から観客が大声で指事出ししないとボールが運べない。というわけで、子供従えたお父さんとかが数組棒にしがみつき、エンヤコラと棒を押したり引いたり。

これも遊具じゃん。終了。と言いたくなるが、ちょっと待った。この作品のミソは「めったな事では楽しめない事」。かなりの人数がゲームに参加し、しかも観客席が協力しないと遊べない。事実、僕が見た範囲では全然うまく行ってなかった。団体旅行とかで来たのならともかく、普通は見ず知らずの人と連係しないとプレイがなりたたない。成り立った時は、そこに仮の協力体制がふっと出来た時で、ここでは「勝敗」はまったく問題にならず、アカの他人とふと繋がることが目指されている。

1発「サイズ」という抵抗が差し挟まれているわけで、少なくとも「遊具じゃん」で終わらないところには持ってきている「作品」。しかし、僕は参加しませんでした。なんだってまたそんなに「参加」させ、「遊ばせ」、「コミュニケーション」させたいのか。なんかの宗教?皆で遊ばなきゃいけない教?


●ミハエル・サイルストルファー
会期末の土曜日で、なかなかのにぎわいを見せる横トリ。ま、相応にみんな「参加」してるし、賑やかだ。そんな中、会場の隅で黙々と回転するモーターがある。そのモーターにはゴムタイヤが装着され、回転するタイヤはコンクリの壁に擦り付けられ、摩擦で削られ、大量のカスが床に堆積してゆく。そんだけ。

この「参加」しない奴は人間じゃないといわんばかりの横トリ会場で、徹底して観客とは無関係に削られ続けるタイヤがナイス。横トリ観客無視大賞をあげたい。タイヤはダニエル・ビュランの旗のプロムナードを通る中で見られるように、この埠頭で普段取り扱われている貨物だ。恐ろしく無骨で、この場所ではありふれたモノ。トリエンナーレの前にも、そして終わった後にも淡々とここに運び込まれ、運び去られていくモノだ。そしてそれは長い距離を回転し、磨耗し、廃棄される。それだけのものだ。

この作品には、決定的に、残酷に流れていく時間+経済が刻印されている。一切の「楽しみたがる消費者」には無関心にすり減っていく何ごとか。ほとんどこの1点で、横浜トリエンナーレ全体に拮抗している。


●ミゲル・カルデロン
トイレットペーパーのロールを積み上げた「考える人」。よく見るとロールにはロダンの文字が。

メキシコのアーティスト。なんでこれが重要かというと、メキシコを植民地にしていたスペインは、フランスのナポレオン体制下に組み込まれ、これを契機にメキシコは独立運動を開始するわけですよ。手法はポップアートなわけですが、メッセージ的にはかなり社会的というかPC寄りなんではないですか。でも、そんなに単純な「西欧批判」じゃない。メキシコそれ自体にもこの人のシニカルな視線は向かっていて、そこがギャグになってる。


小金沢健人
いくつか作品を出していたみたいだけど、ぼくがそこそこ時間をかけて見たのは2色の色エンピツ(だと思う)の線が交わったり離れたりしてゆく様を、ずーっと上下に流し続ける映像。

とてもチャーミングな線(ドローイング)のダンスみたい。走行する電車の車両と車両の連結部分からレールを見下ろすと、分岐したり合流したりする軌道が踊るように見えてくるけど、ややそれに近い。この場合、運動いているのは「踊っている」方ではなくてこちらの視点なわけだけど、この作品ではそれをさらに映像に撮って見せることで、更に運動の感覚というものを抽象化している。なんだかこの作品をずっと見つめていると、見ている自分は止まっている筈なのに、体が浮き上がっていくような目眩を覚えるのだ。

色彩がきれいな点も注目。こういうところにセンスが出ると思う。


●安部泰輔
大きな木の枝に、たくさんの小さなぬいぐるみがぶら下がっている。木の中では、会期中ずっとぬいぐるみが作られ続けている。このぬいぐるみは1つ1000円で販売されている。

会期が始まってもずっと作られ続けているという、今回のトリエンナーレの特徴の1つを象徴している作品(というか行為?)。この作品のポイントは「作家が直に商売」していること。作られているのは、正直あんまり可愛い感じもせず、丁寧な作りとも言いがたいもので、ごく普通に考えて商品としてたいへんに微妙なもの。しかも、たしか1つ1000円とかいう値段がついていた。

ぼくはこういう、幼児的なものに一種の不気味さを加えたものの、美術内部での流行っぷりには興味がない。が、この作家のやっていることの微妙な「暗さ」というものが気になった。お金のやりとりを実際に自分で行う、しかもほとんど「詐欺」ぎりぎりに近い「商売」を行う所に、単なるキモカワイイだけではないものを感じる。「終わらない制作」とか「観客とのコミュニケーション」とかよりも、そこんところがクローズアップされて良いのではないかと思う。


●黒田晃弘
似顔絵屋さん。イーゼルの前に座って、お話などしながら黒田氏に似顔絵を描いてもらう。そのまんま。壁面には描かれたたくさんの似顔絵が張られている(僕は眺めただけ)。

ま、これも観客参加+会期中制作され続ける作品ということで、川俣サーカスの特徴をよく示している。ただ問題なのは、ぶっちゃけこの「似顔絵」が、あんまり良くないことなのだ。似てるにてないではなく、いくらなんでもイラストチックすぎる。つうかイラスト。この人ははっきりと、目の前の客を見ていないで描いていて「似顔絵」以外のところにバリューを設定しているのだ。

それはどうかなぁ。ごくまっとうに「似顔絵屋」に徹して、コミュニケーションの発生とかは、その派生物として扱ったほうがいいのでは。似顔絵を持って帰ろうとすると高い値段を取るのも変。8000円て。作家と関わるきっかけ作りって、そんなに価値があるもんなの?


●COUMA
会期中、えんえんやってる卓球大会。卓球台の下とか、むやみに高い審判台?とか、ちょっと捻ってる。

ちょっと捻ってるとはいえ、ほとんど単なる大卓球祭り。もう他の作品そっちのけで熱中している人とかいて、ここまで「ただの娯楽」に徹してしまっていると、「中途半端な娯楽」になっちゃってる作品に対して批評的とも言えるポジションを獲得している。いっそ清清しい。これ、捻り抜きで完全に卓球場にしちゃった方がよかったんではないだろうか。少しだけ「美術っぽい」ものに未練が残っているのが玉にキズ。


はい、おしまい。パンフレットによると、参加アーティスト数は71ということで、僕は半分も見てない事になる。これで「総論」とか書くのは無理があるかな。どうしよう。素直に印象論書けばいいのか。うーん。書かないという選択もあるよなぁ。そうするかなぁ。