観光・イタリアルネサンス(2)
●フラ・アンジェリコ
サン・マルコ寺院でフラ・アンジェリコ。
ある大きな流れから言えば、ブルネレスキ-マザッチオのラインにあるのがフィリッポ・リッピだとして、ギベルティ-アルベルティというライン上にあるのがフラ・アンジェリコかもしれない。後にレオナルドが確立することになる「一画面/一場面」という形式を先取りしているのが中期から後期、ことにサン・マルコ寺院上部階のフレスコ群とも見える。そのことが彼の画面にある明解さ与え、清明で見ようによってはシンプルな「近代的精神性」を感じさせることに繋がっている。だが、そのような分類が消去するのは個々の作品だ。サン・マルコ寺院上部階にある「嘲弄されるキリスト」の異様さは、このような単純なラベリングから外れている。
「嘲弄されるキリスト」は狭い僧房(日本的に言えば四畳半くらいだろうか?)の壁面に描かれたフレスコ画だ。ほぼ真四角の部屋は天井がアーチを描きパン一斤を厚く切ったような空間を持っている。高さはそれなりにある印象がある。入り口の向いに小さな窓が穿たれ、それと同じ壁面の向かって左上、かなり高めな所に縦195cm、横159cmの大きさで描かれている。上2/5程度のところでアーチを描く画面だが、その弧の左上が部屋の天井の弧に近接している。
画面中央、やや高めの位置に赤い布がかけられた箱状の椅子があり、そこに白い大きなドレープをもった服を着て、やはり白い布で目隠しをされたキリストが座っている。その背景にはあかるいグリーンのついたてのようなものがあり、そこにキリストの顔を挟んで二組の「手」が浮かんでいる。その一つは棒をもちキリストを打っている。また向かって左には横向きの褐色の肌をした男の顔が肩から上だけ浮かんでおり、キリストに唾を吐きかけている。この男の左手と思えるものも宙に浮かび、帽子を持っている。
このつい立てのすぐ後ろに左右に広がる無地の壁があり、つい立ての左辺には細く影が落ち立体感を出している。壁の上部は赤褐色と黄色味をおびた帯があり、その上、アーチを描く上辺は漆黒となる。画面の輪郭を囲む部分は一段トーンが落とされ、中央のキリストの純白の姿が輝いて見える。
座ったキリストの足が置かれているのは白い台座で、これはやや感覚的と思える1点消失の遠近法で描かれている。この台座がある床からさらに1段下がって青みがかった最下層の床があり、この両端、画面向かって左下に聖母マリアがおり、反対側に聖ドミニクスがいる。マリアはほほに手を当て、顔をやや左下にむけており、聖ドミニクスも顎に指を当て、はっきりと左下を向いて顔を伏せぎみにしている。聖ドミニクスの頭上には聖性をしめす星のマークが浮いている。キリスト・マリア・聖ドミニクスの頭部の後ろにはやはり聖性を示す光輪があるが、キリストの光輪だけは特権的に赤い十字が描かれている。この赤は、キリストの座る赤い布のかかった椅子と対応している。
僧房の入り口付近にロープが張られ中に入り込めないことから、真正面からこの絵を見る事ができない難しさがあるが、それでもなんとか分かるこの絵の特異性は以下の点にある。
- 全体に彩度の押さえられた中でややバルールを外すようなキリスト背景のグリーンのつい立てに、2組みの手と男の横顔だけが唐突に浮いている。
- 一見同じ室内空間にいると見えるキリストとマリア・聖ドミニクスだが、唾を吐かれ棒で打たれているキリストにマリアも聖ドミニクスもまったく関心をはらっていない。
- また、同一の床にいると見えるマリアと聖ドミニクスも、お互いの存在を無視し、各個にもの思いにふけっている。二人の視線はいずれも向かって左下、画面の外に向かっている。
- キリストは目隠しをされ、マリアも聖ドミニクスも(更に言えば画面の外の観客も)見ることができない。
- また、子細に見ればキリストの座る赤い布のかかった椅子は、ほとんど緑のつい立ての中にあり、かろうじて向かって左下にかすかについ立てよりも前に出ていることが暗示されているにすぎない。
- このわずかな「はみだし」は、座るキリストの大腿部の奥行きを考えれば不十分であり、まるでつい立ての中に描かれた画中画としてのキリストの下半身だけが、亡霊のように手前に突き出しているように見える。
上記の特徴から、一見ある狭さをもった1つの室内の情景に見えるこの絵は、いくつかの空間がありえない形で同居して描かれていることがわかる。まず、マリアと聖ドミニクスがいる空間と、緑のつい立てに浮かぶキリストを嘲弄する手及び男の横顔は、完全に次元を異にしている。また、キリストは嘲弄する手と男のあるつい立てに半分埋没しながら、下半身(と前に突き出された手)だけが「こちら側」に突出している。そして、キリストのいるレベルとマリア・聖ドミニクスがいるレベルは一段高い床およびそこに乗せられた白い台座によって分断されている。画面に残る筆跡を見ると、背景となる白い壁は縦にストロークが伸びており、最下層、マリアと聖ドミニクスのいる床面は左右のストロークで描かれている。緑のつい立て、白い台座、台座のある一段高い床はタッチに明確な方向がない。更に注意して見れば、マリアと聖ドミニクスは共通の床面にあるように見えるが、ほぼ中央で微妙にトーンが分けられている。相互に無関心なマリアと聖ドミニクスの様子からも、この二人は「違う平面」にいる。当然歴史的な順列を考えれば、マリアと聖ドミニクスは同じ時空に存在しえないことが分かる。また、マリアの影は一段高い床に落ちている。
もう一段この絵を奇怪にしているのが画面上部のアーチに沿ってある漆黒の色面だ。この黒々とした部分は本来なら分裂した各次元を統一する「父なる神」及び「精霊」を暗示する光があってしかるべきだが、「明るさ」によってイメージされているフラ・アンジェリコの仕事の中でも他に見当たらない空虚さがこの「暗黒」にはある。虐げられるキリストの痛々しさを庇うべきマリアも聖ドミニクスも、そこにキリストなどいないかのように自己の世界だけに入り、更に全てを知っている筈の全能なる神も不在となる。この絵を見るものは、キリストの痛みをどこにも持っていくことができない。そして、その痛みをキリストと共有することもできない。なぜならキリストはこの絵を見るものを見ておらず、むしろ見るものの視線を拒否しているからだ。
ここで検討を終えれば、ぱっと見では「一画面/一場面」の先駆者であるフラ・アンジェリコに、意外な複雑さを見て幕引きとなる。だが、フラ・アンジェリコの、というよりは「キリスト教」の「暗さ」が浮上するのはこの先だ。最初に謎としてあった点に戻ろう。手や横顔だけが浮いているキリストを傷めるものの「身体=暴力の源」はどこにいったのか?それこそ、キリストと徹底的に分断されてある「我々」、すなわちこの絵を見るもの、「キリストへの接触不可能性」を突き付けられている「我々」にあるとされているのではないのか。そこには、キリストの「近く」にいながら、しかしけしてキリストではないマリアと聖ドミニクスも含まれてしまうのかもしれない。そこにはキリスト「教」というものに対する、ある力動が働いているように見える。
キリスト教というものだけにフラ・アンジェリコを回収してしまうのは危険だ。敬虔なる画僧というヴァザーリの言葉からイメージされるようなフラ・アンジェリコは、実際には冷静な状況観察者であり、なにより画僧という技術者であった。国際ゴシックから出発し、細密画や板絵も注文に応じてこなしながら周囲の様々な「ルネサンスの萌芽」を柔軟に吸収し(後発のマザッチオに衝撃を受け、急激に「ルネサンス化」したりもする)、以降かなり長い期間活動しありとあらゆる絵画の形式を実践し続けたフラ・アンジェリコは(初期と後期では同じ画家とは思えない程だ)、意外なくらい多様な作品を残していて単一の像に納まることはない。だが、そのような多様性を含め、イタリアルネサンスという一種の爆発を産んだ力とはどこにあったのか。
それは単に先行する中世が重要だったとか言う話ではない。ある時代を深く基底している強力な何ごとか、この場合は「キリスト教」というものだったと言ってもいいが、そういったものとのコンフリクトが起きた時に、極めて危うい地点で成り立つ思考の瞬発力だったようにも思える。このような結論は拙速だが、とりあえずは予感としてとっておきたい。そして、もし現在でもルネサンス期のような地殻変動がありうるとすれば、「我々を深く基底している強力な何ごとか」から「乖離」することなく「コンフリクト」を起こすことでしかなりたたないのかもしれないが、これはさらなる予断だろう。
以下、もう少し気楽に進めます。