観光・イタリアルネサンス(4)
●マザッチオ・聖三位一体
サンタ・マリア・ノベッラ教会でマザッチオ「聖三位一体」。
1427年作とされている。サンタ・マリア・ノベッラ教会側廊壁面に描かれたフレスコ画で、観客の視点を水平線上と設定しそこに一点の消失点を置いた遠近法で描かれている。この極めて有名な構図、その図像的な点についてここで書く必要は感じない。
ローマ風の柱と柱頭等でトロンプ・ルイユ的にフレームを描き、そこに空間を穿ちローマ風柱の手前左右に寄進者、その一段奥にマリアとヨハネ、中央に十字架上に磔られたキリスト、その後ろに父なる神を描いたピラミッド型構図は、しかし手前寄進者がもっとも小さく、奥の父なる神が大きく見えるという、人物のスケールに関しては逆遠近法が使われているように感じられること*1、また寄進者の跪く床の下の台座に横たえられた白骨など、目がとまる所が沢山ある作品だが、僕が最も興味を引かれたのはそのマチエールだ。
フレスコは生乾きの漆喰の上に水溶性の絵の具で描画し、乾く時に表面に皮膜ができることで堅牢な画面を作る。この技法の特性上、絵の具の盛り上げ、厚塗りには不向きだ。仕上がりはやや透明感を持った薄い塗りとなり、そのテクスチャーは顔料よりは基底となる漆喰の壁面に基づく。この「聖三位一体」においても、全体的にはそのようなサーフェイスとなっている。
しかし、画面中央やや高めに描かれているキリストの肌は、この画面の中でも、またフレスコ画一般と比べても、明らかに目立って「厚い絵の具」が置かれている。大きなマントを羽織った寄進者およびマリア・ヨハネ、父なる神に囲まれたキリストは、腰布1枚をまっとただけの半裸の姿だが、その白く輝く肌はたっぷりと粘度をもった絵の具によって描かれ、ある官能性を感じさせる。色彩だけ見ればローマ風の柱も似たような明るい色をしているが、こちらは先述のようなフレスコ画特有の「薄さ」を持っておりやや白けている。これと比較するとキリストの肌の生々しさは際立っている。
このような、フレスコ画におけるボリュームある肌の表現は、アッシジのジオットーのフレスコ画のごく一部「外套を差し出す聖フランチェスコ」の顔のハイライト等に極めて限定的に見られたが、例えば同じマザッチオのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の「聖ペテロの生涯」では見られない。アッシジのジオットーの人物の顔のハイライトは立体感の表現を求めてのものだと思えるが、線遠近法が「奥行き」の主軸を担うことになったこのマザッチオの「聖三位一体」では、キリストの肌の表現は、立体感というよりは肉の表現そのものと言える。
しかし、肉の表現というなら周囲の登場人物、寄進者・マリア・ヨハネ・父なる神の顔や手にも同様の特徴が見られて良い筈だ。が、実際にはそのような「絵の具の厚塗り」はキリストの肌のみで行われている。ここでは絵の具は「絵の具でありながら人の肌に見える」という状態を獲得している。これがキリストの描画でのみ行われているならば、それはほとんど「受肉」の現前化と見える。神的なものが人という形で現れたキリストという現象が、人の肌というものを絵の具で表すという事に重ねられているのが「聖三位一体」だとも言える。
フラ・アンジェリコの後期代表作であるサン・マルコ寺院「受胎告知」でも、マザッチオ「聖三位一体」とは違った意味で意識的なマチエールの組織がある。フラ・アンジェリコ「受胎告知」では遠近法による「奥行き」が象徴としての光で満たされていることは先に述べたが(参考:id:eyck:20060113)、この光りを感受させるトーンの構築は緻密で、そのマチエールは画面全体にわたって粒度の細かい硬質な物質感となっている。同じサン・マルコ寺院の僧房における、先行するフレスコ画群ではやはり意識的なトーンによる「明るさ」はあるものの、そこにはおおきな幅の刷毛の跡が見られる。しかし、後期の「受胎告知」では、画面は大形化しながらむしろテンペラ画を思わせるハッチングのようなタッチで覆われ(画面の一部にある、やや性質の違うタッチは後の加筆によるものか?)、全体に薄くはあるものの、時間との競争となるフレスコ画としてはかなり細かいストロークでその繊細な階調が表現されている。その結果、まるで光の粒子が画面全体に滞留しているような*2マチエールが成立している。
このフラ・アンジェリコ「受胎告知」でも、絵の具が絵の具でありながら絵の具ならざるものとして見えてくるという「変容」が起きている。そしてこの「変容」も、精霊の光のマリアへの聖告と処女受胎というある種の「変容」と一致する。北方で油絵の具が開発された後、この「受肉」の観念は油絵の具というものの主要な存在理由になっていったと思えるが、その技法の伝播の直前に、マザッチオやフラ・アンジェリコといった鋭敏な画家達は、最も「受肉」という事態を引き起こしづらいフレスコにおいて、その画材の性能の臨界を探るようにマチエールを組みあげた。ここではフレスコ画は図像中心ではなくその物質性が問われるような段階にある。
「聖三位一体」に話しを戻せば、その空間は奥行きというよりは明確な「高さ」、垂直なものとしてある。極端な縦長の構図、人の視点=寄進者の水準からマリア、キリストを経て父なる神へと視点を上昇させていく構成は、しかし画面下部に描かれた白骨によって、「上昇」が反転し「下降」する運動を喚起する。そしてこの「振りおろされる運動性」は、生々しい肌をもったキリストからくすんだ褐色で沈滞するように描かれた白骨へというマチエールのコントラストによって基礎づけられている。鮮やかな赤と青みがかった緑を感じさせるグレー、そこに浮かぶ輝く官能的なキリストの肉体の強い対比がある上部に対して、文字どおり「地下」にあるような下部、白骨のある空間は最初は盲点となり視界から隠れるようだが、そのやや遅れて知覚されるあり方が、上昇が反転し下降するこの「聖三位一体」という作品の、安定した構図にもかかわらずダイナミックに見える骨格を規定している。