観光・イタリアルネサンス(6)

●雑記2
今日は全面的に雑記。なにしろサンタ・マリア・デル・フィオーレのドゥオモは文字どおり「お上りさん」してきただけなんで。ざっと町歩きの話を。


フィレンツェは小さな町で、30分もかければ町の主要部分の北から南まで歩いていける。おかげで3日の間、町中歩き回ってしまった。1日目の朝、捨て子養育院に向かうまでは地図と首っぴきで迷いながら行ったのだが、入り組んだ小道の角々の建物に付けられている通り名のプレートを読むことを覚え、困ったらとりあえず姿がのぞく大クーポラを探す事を覚えたら、そんなに地理に不安はなくなった。普段は超方向オンチとして生きているものだから、これは自分でも意外だった(なにしろ不安で方位磁石まで持っていったのだ)。


町中は中心部は石畳だが少し離れるとアスファルトもある。この舗装が場所によっては荒れていて、どのみち車で走って滑らかな町ではないのだが、おかまいなしにフィアットとかが通り過ぎる。路地で活躍していたのがバイクで、マフラーをいじったらしいのまであった。ま、いわゆる集団走行ではなかったから、単に壊れていただけなのかもしれない。全体に小奇麗な町とは言いがたい。バスは広告が描かれたラッピング・バスもあったが、そうでないバスはほこりだらけだった。みんながんがん歩きタバコをしていて、しかもポイポイ捨てる。ちなみに室内に入るとほぼ禁煙の店が多かった。なんか逆な気がした。


バスといえば、前日フィレンツェ郊外の小さな空港に、ドキドキするような着陸(機体が止まった後拍手があった)をした後、この空港と市内を結ぶシャトルバスに乗ったのだが、これが微妙にさびれた感じのバスで、4ユーロという値段に惹かれて乗ったものの、暗い車内でやや心細くなった。路線は少し荒れた感じの、空き地が目立つ中にくすんだコンクリートの集合住宅が立つ中の道で、道脇の壁にはポスターが張られアメリカンなスプレー落書きが目立った。そうこうしているうちにタイヤの走行音が石の上を走る感触になり、暮れたサンタ・マリア・ノベッラに着いたのだった。


少しネガティブな事を書いたかもしれないが、全体に僕はリラックスした、親密な印象をこの町に受けた。古都だからといって、神経質に磨きあげていない。建物の補修は驚くべきノンビリさ加減でやっている。リズムが違うであろう各国からの訪問者も、客と思って適当にこなす。でも時間が来たらとっとと店終いする。通じないイタリア語も慣れた調子で読み取って、とくに頓着もなく自然に返してくれる。道には移民が出す土産物らしい屋台が物凄い勢いで並んでいる(サン・ロレンツォ教会裏がメッカ)。性の合わない町ではない気がした。もちろん観光客としての思い込みなのだろうけど。


裏道も入った。スリやジプシーの子供たちによるドロボーの話も聞いていたけれど、結果的に恐い目に会わずにすんだ。1度だけ、サン・ジョバンニ広場で腰に巻いたポーチを後ろから軽くつつかれて慌てた。若い女性が僕のポーチを指差して歩き去った。ポーチのファスナーが開いていた。やられたか!と思ったが、何も取られていない。そういえばちょっと前に物の出し入れをして、ファスナーを閉じるのを忘れていた。さっきの女性は注意してくれたらしい。運がよかった、と言えばそれまでだ。しかし、いずれにせよ、僕は守られた気がした。


道ばたで時折「おこじきさん」の姿を見かけた。意外に汚い印象はなかった。そういえば、日本で傷痍軍人とかを見かけなくなったのはいつからだろう。僕が小さかった頃は、まだ駅前や地下道で出会った気がする。たぶん、日本ではどこかの時点で排除があったのだろう。


捨て子養育院、サン・マルコ寺院を見てから昼食をとり、サンタマリア・ノベッラ教会とサン・ロレンツォ教会を見てサンタマリア・デル・フィオーレのドゥオモに着いた時は午後4時を過ぎていた。陽は西に傾きはじめていた。真直ぐクーポラの頂上に登る行列に並ぶ。フィレンツェで唯一ならんだ行列だった。ブルネレスキのクーポラは、あまりに近くてそのフォルムがわからない。真上の空は青を濃くし始めている。少々ジレながら行列が進むのを待った。


ようやく受付で6ユーロ払い、サンセット・ビューを見るぞ!と意気込んでゲートをくぐったが、これが厳しい「登山」だった。高尾山かと思った。長く、狭く、そして急な階段(身廊の裏に作られたスペース)を登り、もう疲れた、と思ったところで改めてクーポラの二重構造の間を登っていく。合間に小さな窓が穿たれ、光る赤屋根の町並みが見えるのだけど、あとはただ歩くだけ。たまにレンガの積まれ方を見て「これがブルネレスキの考案した…」と思いはするのだが、じっくり見たいと思っても後続の観光客群が許してくれない。時折降りてくる人とすれ違う時は(登りと下りは別ルートなのだが一部重なる所がある)空間を譲り合う。子供連れがけっこういて、自分の身一つ引き上げるのに苦しんでいた僕としては、親って偉いなぁと思った。


頂上についた。日没には間に合って、西の山並に強い夕日がかかりつつある。その日見てきた、捨て子養育院もサン・ロレンツォ教会も光っている。翌日行く予定だったウフィッツィもヴェッキオ宮も、アルノ川を挟んでピッティ宮の影も見える。ドゥオモも大々的に修理中ではあったが、眺望の邪魔には(そんなには)ならなかった。狭いランタンの回りは観光客の記念写真撮影大会となっていく。日本語も英語もイタリア語も聞こえる。面白いのが白人女性で、写真を撮る時、「アンタはヴォーグのモデルか」と突っ込みたくなるようなポージングをする。さすがパツキン。


泊まったホテルはサンタ・マリア・ノベッラ教会のすぐ近くだった。毎晩すぐそこにマザッチオの三位一体があるかと思うと緊張して眠れない、なんてことは全然なくて、朝早くから夕方ギリギリまで歩き回り、そこから適当なトラットリアを探して夕食をとって帰宿し、クタクタになってたから夜10時すぎには熟睡していた。市内を循環するバスを上手く使えばよかったのかもしれないが、慣れないイタリア語で路線図を把握するより、歩いた方が気楽だった。


ゴハンの話しなんかはまた今度。