観光・イタリアルネサンス(22)

●ジオット3(サン・フランチェスコ教会上堂壁画)

アッシジのサン・フランチェスコ教会上堂でジオット「聖フランチェスコ伝」を見た。このフレスコ壁画群の、ジオットへの帰属は議論があるようだ。その内容は知らないので単なる推測になるのだけれども、もしかするとそのような疑問が提出されるのは、この壁画群の、他のジオット作品にもあまりない“薄さ”に起因するのかもしれない*1


最初に断っておくと、僕はこの壁画群のジオットへの帰属云々は疑ってもいないしあまり興味がない。そもそも誰が描いていようと、この壁画群は総体として素晴らしいと思うし、そこに良い作品があるのであればそれでいいじゃないか、というのがぶっちゃけた本音としてある。議論があると言ったって、大体において弟子の関与の大小が問題になっている位の事で、大きく言えばジオットの作品としての評価は固まっているのではないか。だから、僕がこの壁画群について言う“薄さ”とは、あくまで作品の“質”ということと同義だ。


アッシジ「聖フランチェスコ伝」の薄さは、2つのレベルで考えられる。まず第一は、絵の具の薄さであり、第二は画面の密度の薄さだ。最初の絵の具の薄さという側面は、フレスコというメディウムの特徴ではあるが、このアッシジ「聖フランチェスコ伝」では、このメディウムとしての“薄さ”が意識的に扱われることによって、画面にある透明感が発生し、それがこの「聖フランチェスコ伝」に固有の空間を発生させることに繋がっている。


28面にわたる「聖フランチェスコ伝」の、最初の1枚になる「質朴な男の尊崇」で、画面上方に広がる青の色面の“薄さ”が、全ての基点になっていると思える。おそらくラピスラズリの青であろうこの色面は、雲も描かれることなく文字どおり「青」としてあるが、この漆喰に刷毛でひかれただけの青は、中景となる精緻に描かれた建築物の箱的空間によってというだけでなく、向かって右の緑の建物の色彩、中央の褐色の建物の色面と関係して、抽象的な空間を発生させている。同様の事は、続く「外套の貸与」にも見られる。こちらでは、俗世を示すむかって左手の山、教会を頂く右手の山に挟まれたV字の空の青がやはり独自の空間を成り立たせる。


以下、「宮殿の夢」、「財産の放棄」と、空を示す部分の、物理的には薄く水彩的に広がり、見ようによってはそっけない、手が入っていないだけの青が、画面を呼吸させある空気感をもった瑞々しく複雑な色面として機能してゆく。経年劣化によって基底の漆喰のむらなどが露呈したその色面は、むしろタッチを浮かび上がらせこの複雑さを強調している。ジオットの革新といわれる建築物や人体の立体感よりも、この色面の組み上げの方が遥かに素晴らしく「空間」を生み出す。


この“空間”は、けして視覚的な“奥行き”のことではない。それはむしろマチス的とも言える性質のものだ。以前上野の森美術館でみられた「ダンス」の背景、あるいは国立西洋美術館での「マチス展」での、室内で植物や家具に囲まれた中で眠る女性の姿を描いた作品に見られた薄塗りの色面を想起するような(無論同じ、ということではない)感覚が、このジオット「聖フランチェスコ伝」の、主に前半の作品に多く見られる。


このような描きは、生乾きの漆喰に顔料を溶いた絵の具を置いた、その時のインパクトから組み上げられているとしか思えないもので、慎重なプランニングが必要とされるフレスコでは他にあまり見ることができない。事実、サンタ・クローチェ教会のバルディ礼拝堂でジオットが同じ主題を描いた「聖フランチェスコ伝」は、不良な保存状態のせいもあるかもしれないが、このような生き生きとした画面ではない。それは白っぽく不透明で、やや硬直した印象がある。


アッシジ「聖フランチェスコ伝」での、このような新鮮な画面は、密度の薄さ、つまり画面内部の要素−ここでは端的にいって登場人物の少なさによってもたらされているように思える。前出の「外套の貸与」「宮殿の夢」の他、「イノケンティウス3世の夢」、「アレッツオからの悪魔の追放」、「玉座の幻影」、「小鳥への説教」と、登場人物は2人〜3人に絞られる。この人物の少なさが色面を産み、上述のような画面のフレッシュさをもたらす。ジオットが賞揚される時に持出される人物表現の立体感は、具体的には画面上で白と他の絵の具を混ぜ合わせるグラデーションとしてあらわれるが、このグラデーションが画面を埋めると、フレスコは息苦しくなる。アッシジ「聖フランチェスコ伝」でも、このような作品は遍在していて、例えば「クララ修道女の哀悼」などは、完成度の高さをうたわれているようだが、その“完成度”が逆に画面を不透明に不活性化している。


このエントリで記述した空間という言葉は、むしろ時空と言った方が正確になるかもしれない。くり返すが、それは遠近法的な奥行きの事ではない。いわば“場所”のようなものかもしれない。アッシジ「聖フランチェスコ伝」で見られる青や緑、褐色etc.の色彩は、空や建物や地面のようでありながら、視覚的にはどこにもつなぎ止められていない、浮遊した場所のように見える。いうまでもないが、ジオットがマチスを先取りしていた、みたいな事を言いたいわけではない。マチスがジオットを学んだ、ということでもない。画面との対話的な描きのありようが、不意に交錯しただけにすぎない。そして、このような交錯が、より高次の意味での関係性というべきものだと思う。

*1:パドヴァのスクロベーニ礼拝堂は見ていないので、そこはわからないけれども