観光・イタリアルネサンス(25)

●カラバッジオ

ローマ・バチカン美術館でカラバッジオ「キリスト降架」。1603年頃に描かれたとされている。キャンバスに油彩で描かれている。縦300cm×横203cmの大きさがある。この絵に感じるのはほとんどギャグ的ともとれる大仰な身ぶりの意識的な組み上げと、それを産み出すモデリング的な油絵の具の扱いで、そこに現れる時間の感覚は、シャッターを一瞬で切ったような刹那の切り出しというよりは、もう少し「長さ」のある、身ぶりをつけられたモデルを、アトリエで画家の視線で観ているような、ある息苦しさをもたらすようなものだ。


ここでカラバッジオは、油絵の具を粘土か樹脂のように、ゆっくりと心棒に盛り付けて人体を彫塑してゆくように操作する。その、画面に絵の具を置く「速度」がもっともよく現れているのは、かかえられたキリストの死体の、すねの部分のハイライトで、ここで絵の具は骨格に肉を付けていった動きに沿うように(恐らく向かって左から右に)、塗り付けるかのように定着させられている。このような絵の具の動きは、原則的に画面のほとんどを覆っている。無論、人物の顔のような造作の細かいところではそのタッチは短くなるし、衣服の広い面などでは大きくなっていくが、その速度の幅はそれほど広くはない。


ルーベンスの「イザベラ・ブラントの肖像」では、モデルの形態を捕らえるときに、極めてスピーディーなタッチと細かくスタッカートを切るようなタッチが幅広く混在していて、その総体がスポーティーに見えたが(参考:id:eyck:20060130)、このカラバッジオの「キリスト降架」では、そのような運動感覚はない。かといって、写真のように瞬間の切断面を切り取るような刹那性もない。意図的に止められた=アトリエでポーズさせられたモデルを、じっくりと観察してゆくような持続的時間は、この絵の具のモデリング的性格から発生する。


アトリエで画家がモデルを観察しているかのように、聖書の悲劇的場面を記述する、そこにカラバッジオのリアルがある。そしてそのリアルが、キリスト教の聖なる場面を一気にギャグ、すなわち現実からずれた虚構として立ち上げる。ここでのモデルは、役者のように演技をしているわけではない。動きを止められ、画家から指示されたポーズをただ維持している。止められた動きに感情は伴なっていないので、その全体には観客の感情を移入させるようなものはない。それが極端に表出しているのが画面向かって一番右にいる、両手を大きく広げ上げている女性の表情と仕種で、この女性の顔はまったくしらじらしく「命令を守っている」だけのものであり、大袈裟にかかげられた手には力が入っていない。


カラバッジオの迫真性は、聖書の出来事が、今ここで起きているかのように観客を画面に引き込むのではなく、アトリエで指示されたポーズをとるモデルを見る画家の視点に観客を置く。そこでは観客は、キリストを見るのではなく、キリストを模したモデルを見ることになる。それは上述の、絵の具に込められたモデリングの痕跡だけでなく、その図像的構成からも感じられる。単純に言って、キリストが十字架から降ろされたその場面に居合わせたとして、その人はこの「キリスト降架」のような角度からその場面を見るわけではない。「キリスト降架」では、画面下辺に台座が設定され、まるで舞台を観客席から見上げるような角度で視点が設定されている。


この事からこの絵を演劇のようだと評する場合もあるかもしれないが、演劇では一般に役者は動き、その事で観客の感情をも動かす。しかし、このカラバッジオ「キリスト降架」では感情は操作されず、絵の具は彫塑的にモデリングされていて人物の動きは産まれない。だから、それはあくまで「画家」と「モデル」の関係に「観客」と「キリスト」を置くことになる。ゆえにこの絵の視点の角度は、舞台と観客席ではなく、ポーズ台とイーゼル前に座った画家の位置関係となる。ここで暴かれているのは、聖書の虚構性というよりはむしろ「絵画」の虚構性だとも言える。壁面に穿たれた窓からある光景が見えるように組織された絵、あるいは今ここでその出来事が引き起こされているかのように描かれた絵は、ラファエロによって完成されたと言っていいと思うが、カラバッジオは多の追随を許さない程の描写の力によって、その虚構をあぶり出す。


「キリスト降架」の前で、観客はカラバッジオの視線、あるいはカラバッジオがこの絵を描いた時間の感覚を追体験することになる。それは場面への没入というよりはモデルの観察であり、感情移入ではなく知覚の分析に近い。黒い背景は単一に塗り込められるのではなく、6人いるモデルのうち2人が着た黒い衣服や頭髪の黒、画面右下の影の部分など、複雑にその境界が入り組んでいて、繊細に分節されている。ウフィッツィでもカラバッジオの「バッカス」を見ることができたが、そこでもやや腐敗の気配がある果物や、神性のない、みようによっては単なる「酔っぱらい」がそこにいるような、下品なまでに徹底した描写はこの「キリスト降架」同様観客を画面に引き込まずあくまで距離をもった場所に押しとどめる。そのリアルはバロックというよりはクールベに繋がるようなもので、カラバッジオの筆致の、ある遅さも、クールベを想起させる。