観光・イタリアルネサンス(26)

ミケランジェロ

システィーナ礼拝堂ミケランジェロの天井画と「最後の審判」を見た。いずれもフレスコ画で、天井画は1508年から1510年にかけて、「最後の審判」は1536年から1541年にかけて制作されたとされている。


とにかく一望するだけで首が痛くなる。天井画の各場面を個々に見ようと思うと、混雑した場内を動き回って視点を動かし、体を回さなければならない。バチカン美術館から巡ってくると、礼拝堂に入るのは「最後の審判」直下の扉なのだが、一段低い礼拝席を埋めるラッシュ時の駅のような群集に呆然とし、天井画を見上げてあっけにとられ、「最後の審判」を探して混乱に陥り(なにしろ僕は入ったら正面にあると思い込んでいた)、入場直後に自分の背後の壁を仰いで見ても、垂直に屹立する壁の図像など目に入らない。


おかしい、おかしいと思いながら人混みに押されて改めて振り向くと、そこにようやく「最後の審判」の地獄図が広がる。なぜこのような事を書くかといえば、システィーナ礼拝堂というのは、このように歩き回り、迷い、見上げ、疲れながらでなければ見ることができない空間だからだ。画集のように、真正面から「最後の審判」を見る事もできないし、天井画の1つ1つの場面を切り取って個別に見る事もできない。自分の体を雑踏の中で泳がせながら、定位しない視界をなんとか定めようとして、最後は疲労に負けてあきらめそうになるという、一種の戦闘が必要な場所なのだ。体全体を使って視界をさまよわせ、様々な場面が乱れた回遊のようにたち現れる状態は、壁画全体が建築あるいは都市を巡るように見えて来るとも言える。


礼拝堂壁画全体では、ほとんどミケランジェロの描く肉体が溢れて降ってくるかのような感覚で、変な言い方だが手のほどこしようがない、というか“感想”のようなものを簡単には許さない。


自分の気持ちが納まってくるのを待っていると、やがて視界は作品に覆われて来る。そして少し違った気持ちになってくる。システィーナは世界有数の観光地だと思うのだが、礼拝堂を埋め尽くす膨大な観光客の中にいて見上げるミケランジェロのフレスコは、その混乱した、実体としての観光客群の身体よりも遥かに“ボリューム”あるいは“マッス”として強い。何を言っているかわからないかもしれないが、しばらく壁画を見ていると、のべつまくなしに係員がマイクで「静かに」と注意している、そしてその注意があまり機能しないような人々の熱気と疲労の混合物が、ミケランジェロのフレスコの澄んだボリュームの下では細かく弱いものに思えてくる(しかし、実際には壁画を見ようとするかぎり、群集と上手く折り合いをつけ続けなければいけないのだが)。


上で不意に“澄んだボリューム”と書いたが、このような言葉は、システィーナ礼拝堂の天井画と「最後の審判」の、構図的には凄まじい身体の群像でありながら、その組成としてはフレスコの特徴を生かした透明感ある色彩と、天井画に感じられる浮遊感、「最後の審判」の、意外なまでに抜けのある、鮮やかな青の効果によると思える。高さがあり絵までの距離が大きいため画面の表面がなんとか確認できるのは「最後の審判」の下部くらいなものだが、絵の具の物理的な厚さ、重さは感じない。ミケランジェロの描く身体は、ち密な描写によるのではなく、おおぶりで無駄のないデッサンによって、おそらく最小のストロークで形づくられている。過剰な塗り重ねがないため、絵の具層が重くならないのだ。このような清明さはフレスコなら常に得られるというものではない。白が混ぜられ多くの筆が入れば、画面はそれだけ濁る。ミケランジェロのフレスコ、ことに「最後の審判」は、近年の洗浄の効果もあるかもしれないが、晴れやかな感覚がある。


この、全体に充満した肉体のイメージが、同時にどこかしら軽さを持っているのは、上記のような絵の具、あるいはおおぶりなタッチの産み出す個々の身体が、はっきりと上昇感覚を生じさせるからかもしれない。天井画では、トロンプ・ルイユ的に描かれた建築物の梁や柱に、鳥がとまるかのように予言者たちが座り、「アダムの誕生」などいくつかの場面では、具体的に人物が飛翔している。「最後の審判」でも、画面向かって左の、天国へ救い上げられてゆく群像、右の地獄へ送られる群像、上部で審判を下すキリストと寄り添うマリアと、ほとんどの肉体は浮遊している。


最後の審判」は上辺が内側にカーブしており、イエスの出現までの歴史が描かれた天井画が、最終的に「最後の審判」の上方に現れるイエスヘ結実するように構成されている。まとめて言えば、物理的に高い所で、透明度の高い絵の具と的確なデッサンによって大きなストロークで描かれた、浮遊する人体が、大きな抜けのある画面にある流れを持って垂直面の上方の焦点へ集まっていくために、ボリュームある肉体群が軽やかに見える。


このような軽さ、清明さが、しかし同時に圧倒的な強度、息苦しさを覚える程のテンションと同時に成立しているのが、システィーナ礼拝堂ミケランジェロのフレスコの特異性と思える。実際の人体よりも誇張されたマッスをもった、歴史を背負った身体が、創造・原罪・予言・洪水のカタストロフ・地獄・天国を描き、それら全ての中心となる審判を取り囲み渦をまく。この渦が、晴れやかな青の空間に立ち上っているのがシスティーナ礼拝堂だと言える。


助手を使わずミケランジェロが一人で描き上げた画面は混じり気がなく、ある種のエネルギーの高原状態、意識のハイランドを現出させていて、連想を飛躍させれば麻薬的でサイケデリックなビジョンにすら見える。澄み切っていながら高温で溶融した金属の原子の運動のように溢れる肉体が飛び交う世界は、レオナルドを「魔品」と呼んだのに対してミケランジェロを「健康」と言った太宰治の言葉を吹き飛ばす。このような高エネルギー状態を健康とするなら、一般的な健康など単なる衰弱そのものでしかない。このシスティーナに、ミケランジェロの嫌世感や終末的感覚を見るのは間違いではないと思うが、それは同時に高々度の成層圏、あるいは水爆が爆発した後の、雲がすべて蒸発した空のようなクリアな「場」であって、じめじめと湿った、内面的苦悩のようなものとはまったく違う。