ストローブ=ユイレセザンヌ」。自宅で、DVDで見た。視聴環境はMacのDVDプレーヤ+19インチのパソコン用CRTモニタだ。音はMacにヘッドホンを繋げて聞いた。このような事柄を書かなければいけないのが「セザンヌ」という作品で、例えば上記のような環境だと画面のサイズがモニタに納まるように写し出され、右上、右下隅は丸く欠けている。フィルムの隅のようだ。反対側、画面向かって左は直線的に切れている。よくテレビで映画を見るとスクリーンのサイズと縦横比の違いから上下が黒く蹴られて横長に写るが、そういう写り方はしない。DVD化にあたって、ストローブ=ユイレの意図に沿ってそのように納められたようだ。


この映画の特異性は固定画面にある。セザンヌがくり返し描いたシャ・ド・ブッファンの風景やサント・ビクトワール山、そしていくつかのセザンヌの作品がFIXでかなりの長時間写し出される。経過する時間分フィルムは回りつづけているが、風景を捉えたショットで雲がわずかに流れている他は画面の中で動くものはない。その結果、画面の中でわずかに見られる動き、つまり流れ続けるフィルムがもたらす画面のぶれが非常に強く目に刻印される。映画、ことにフィルム撮りされた映画は無数の静止写真の絶えまない連続によって映像をつくり出すが、その間断ない静止写真が1枚、また一枚と切り替わるたびに、ごくわずかにフレーム位置がずれ、それが続くことによって、静止している筈の山や絵画が絶えまなく振動しつづけることになる。この事が、山そのもの、あるいはセザンヌの絵画そのものを正確に捕らえたというよりは、それを媒介しているフィルム、カメラ、そして恐らく映画館で見るなら映写機といったもの、すなわち映画というもののメディウムを浮かび上がらせている。


このような事態が、セザンヌが描いた絵画と緊張感に満ちた交錯を見せていく。西欧の絵画が長くイメージを描きつづけてきた、という言い方には大きな留保が必要になるが(例えば13世紀のジオット、14世紀のマザッチオ、16世紀のカラバッジオ等は、明らかにメディウムに対して意識的だった)、しかし絵画における絵の具や筆、あるいは支持体といったメディウムが主な問題になっていったのは印象派の前後からであり、ことにモネやセザンヌにおいて明瞭に意識されることになる。そこで現れたのは、要素還元的な抽象絵画、例えばアメリカの抽象表現主義の一部の絵画で行われた「絵の具は絵の具である」といった事ではなく、徹底してイメージ、あるいはその知覚の形式を追求してゆく、その極限においてメディウムが露出してしまう、ということだ。このような地点でこそセザンヌストローブ=ユイレは交わっていると言える。


この「セザンヌ」では、ジャン・ルノワールボヴァリー夫人」の一部と、ストローブ=ユイレ自身の先行する作品「エンペドクレスの死」の一部が挿入されているが、このシークエンス、すなわちごく普通に(「エンペドクレスの死」もまた“普通”とは言い難い作品のようだが)動く事物が写し出されるシーンでは、上記のような画面のブレは目に止まらない。フィルムで撮られた映画なら、大なり小なり同じ事は起きている筈なのだが、画面内に写し出される大きく動く人物やその表情、馬車や群集、強風で揺らめく草木といったイメージが強く視覚を支配しフィルムのブレなど消えてしまう。


また、これらの引用シーンでは画面の四隅は一般的な形で四角く切れている。絵画、あるいは版画などに特徴的に見られるように、イメージを定着させた画面の「隅」は、その物質的痕跡が最も顕著に現れる。映画館での上映で、このような画面隅の処理がどのように行われるのかは分からないが、DVD化にあたって、引用部分ではなく新規に撮影された箇所で画面右上、右下隅に丸く「フィルムの端」が写りこんでいる事は、作中ほとんど末尾に近い部分で写るセザンヌの「庭師ヴェリア」が額に入っておらず、イーゼルに置かれている事とリンクする。


また、セザンヌの作品を捉えたシーンでは、画面の微細な振動がセザンヌの絵画におけるタッチがもたらす、やはり細かな揺れと明らかに共振している。セザンヌの絵画において見られるのは、モチーフに目をやる、キャンバスを見て絵の具を置く、そしてモチーフを改めて見るというくり返しの中、目の位置は毎回同じ位置には戻らない、ということだ。モチーフを見返す度に視点は果てしなくぶれ、その結果キャンパスは無数の振動に満ちてゆく。セザンヌの絵画におけるタッチはこのようなものとしてあるが、このこととストローブ=ユイレの固定画面に現れる、チラチラとしたぶれは、偶然とは言い難い繋がりをみせてゆく。ここで注意しなければならないのは、ストローブ=ユイレがそのような意図をもって撮影したのではない、ということだ。むしろフィルム撮影の映画において極力正確にセザンヌの絵画を捉えようとした結果、まさにその厳密性によってこのような共振が現出してしまったと思える。ストローブ=ユイレの「姿勢」が、やはり厳密にモチーフを捉えようとしたセザンヌの姿勢と平行線を描いている。


ストローブ=ユイレセザンヌ」では、一瞬セザンヌの絵画がまるで自分の眼前にあるような錯覚をもたらす、その一歩手前で、あからさまに映画というもの、観念ではない、物あるいは機構としての映画が露出してしまう。ここでは、セザンヌの絵画を実際に見るように見ることはできない。しかし、セザンヌに限り無く近付こうとしながら、遥か遠くへ弾き飛ばされてしまう映画というものの現れによって、逆説的にセザンヌの絵画の至近に、それを見るものを導くことになる。


劇場で見ないことには、ここに書いたような事も全て留保しなければならない映画だ。機会が欲しい。