ギャラリー山口の地下で中津由紀展を見た。

わずかに透明感を持った白い紙のようなものが幾重にも重なって、ちょうど両手の平に乗るような大きさの形態を作っている。壁に設置された、薄い棚に置かれている。多くの作品が、ほぼ対称な2点で1組みとされている。それは、例えば木の実をまん中から断ち割り、並べて置いたもののようでもあり、虫や深海の生き物の断面の標本のようでもある。素材の薄い紙のようなものの縁は微妙にけば立ち、近付いてみれば繊維の編み目が見える。作品によっては不純物の混入がある。全体に軽く、乾いた印象があり、触れればかさりとした手触りがある。


この作品は、絹・木綿の繊維に樹脂を含ませたもので出来ているそうだ。作家の説明によれば、まず

  • 核になる原形が作られ、そこに絹あるいは木綿の繊維を張り付け樹脂を施す。
  • 乾燥したら剥がして、元の核の表面に3-5mmの粘土を足す。
  • そこに改めて、綿の繊維と樹脂を塗布する。
  • 以下、これを複数回くり返す。
  • ある段階に達すると、大きくなった核を原形に、雌型をとる。
  • この雌型の内側に、やはり繊維と樹脂を塗布する。
  • 乾燥したらはがし、雌型の内側にまた粘土を足す。
  • やや浅くなった雌型の内側に、同様に繊維と樹脂を塗布する。
  • 以降くり返す。

小さな核の「殻」から徐々に成長していきある大きさに達するまでの段階的な「殻」が重ねられ、その傍らに、成長した核の反転した内(の)面が少しづつ縮小していく過程の、やはり段階的な「殻」が重ねられている。


様々な形態は、しかし外的なフォルムの面白みというよりはむしろ、その内部に抱え込まれた時間と空間の多層性へと関心を向けさせ、見る者を作品の中へ導くように思える。作品に近付き、棚の水平面まで視点を落として見上げてみれば、それは建築的な空間のようにも見える。絹や木綿の繊維の絡まりあいと樹脂が織り成す、半透明の膜は意外に硬固でありながらしなやかだ。光や空気を透過させ、すこしづつ複数の輪郭を描き、ゆるやかに包みこんでいく。このような構造を持った作品は、おうおうにして心理的な「内部」、あるいは「内面」のイメージを惹起しがちだが、しかし、中津氏のシステマティックで緻密な手さばきは、そのような「内部」のもたらす暗さを持っていない。美しくありながら、接着されていない「殻」の積層のあり方はどこかラフだ。清潔ではあっても神経質ではない。


この作品は、薄い。軽い。乾いている。重なっているが、接触は少ない。明るい。光と空気を通す。吹けば飛びそうだが、すぐに復元できる。意外に丈夫だ。現状を崩して複数の形態をとりうる。すべてをバラして一挙に展開させることもできるし、相互に組み合わせることも可能だろう。丁寧さに裏付けられたラフさが、中津氏の作品の魅力だと思える。


しかし中津氏の作品が、さまざまなバリエーションを想像させながらも結果的にこのように積み重なり、「中」へと見る者の感覚を誘い込んでいくことは注視すべきだ。予想外に様々な可能性がありえたこの作品群が、慎重に「暗さ」や「重さ」を回避しながら、それでも「中」へ向かって世界を展開させているのは、やはり中津由紀氏の資質に基づくものだと思える。


外へと膨張しながら反転し中へと結晶していこうとする中津氏の作品は、しかし閉じることなく“ラフ”に置かれあっけらかんとその「中」を開示している。ここにあるのは、人間的な「内部」「内面」ではなく、ある種の生成の時空のモデルであり宇宙の模型だ。京橋のギャラリーの地下の小さなスペースに、ささやかなあり方でいくつもの宇宙が置かれている。そこに胚胎している時空へ「入りたく」なるのは、決して精神の閉鎖的感覚への引力故ではなく、様々な宇宙の中で生き直してみたくなる為ではないだろうか。中津由紀氏の造形する何事かは、見た目のシンプルさを超えた豊穣さを持っている。


●中津由紀展