ギャラリー千空間で堀由樹子展を見た。1Fに大形の油彩画とドローイング、2Fに小品の油彩とシルクスクリーンの作品、ドローイング、M60号程度の油彩があった。堀氏の作品の特質は、油絵の具が混色されてゆっくりと積み重ねられながら、そのくすみが微妙な地点でよごれることなく独自の彩度を保っているところにある。堀氏の作品は文章として記述することが困難だ。良いと思える作品は、確かに記憶にははっきりと刻印されるある質を獲得しているのだが、その質について記述しようとすると、とたんにキーボードを打つ手が止まる。しかしその難しさが、まさに実作をみなければわからない輝きとして画面を支えている。


画面それ自体は難解なものではない。1Fの大形油彩画「樹間」は正方形のキャンバスに木とそこから伸びる枝が配された、なんということはない風景画のように見える。が、画題に示されたとおり、ここでは木と木、枝と枝の間の抜けて行く空間が重視され、多くの絵の具が堆積されている。それだけであれば単に地と図が反転しただけのものになってしまうが、堀氏の作品を複雑にしているのは、木あるいは枝と、それを取り囲む空間の瀬戸際、その輪郭での絵の具どうしのせめぎあいが、ほとんど筆のタッチごとの単位で試行錯誤され、幾重にも折り返している所だ。そしていつのまにかその局地戦が、大きな画面の構造を組み上げていく。


堀氏の作品においては、繊細なおおぶりさ、とも言えるものがあり、それが作品を細く貧しくせずに、たっぷりとした豊かさがたたえられたものとしている。例えば、よせては返す筆の往還が描き上げた枝の微妙なあり方に、マンガのように付け足された「葉っぱ」は大胆にラフに描かれ、それがだらしなくならずに、ある種の抜け、見る者を安堵させるような「気楽さ」を形成している。堀氏の作品は丁寧に構築されながら、しかし見るものを突き放さず、画面の様々な要素がそれを見る視線を迎え入れるゆるやかさをもっており、なおかつそこで迎え入れた視線に、改めて一種の抵抗、密度のある手触りを感じさせる。要するに、このような、絵の内実が複雑なのであって、それはいわば重いパンチのように、見てからしばらく後に効いてくる。


そういった意味では、同じく1Fに置かれている「畑」と題された作品は、形態とタッチの関係の単調さ、色彩の彩度のコントラストの激しさ、そして画面のサイズの物理的な大きさが、単純な「強さ」を形成してしまい、あまり上手くいっていない。堀氏の作品がもつ強度は、「畑」のような瞬時に現れるインパクトの大きさにはなく、「樹間」に見られるような、細部をどこまでも追っていけそうな時間の積み重ねられ方が、しかしいつしか大きな作品の世界観を成してそれが徐々に見るものに伝わっていく、遅延する効果の持続にこそあると思える。


2Fにある横長の作品では、やや特異な構成がされている。例えば「樹間」では、画面内にあるいくつかの木の幹や枝は、相互に関係づけられ、いわば連合体をなして1つの画面を形成している。スクエアキャンバスというフレームの形態もそれを補強しているかもしれない。しかし、このM規格の横長の作品では、描かれている木や枝が相互に関連せず、いわば“自分勝手に伸びて”いる。画面下辺がすっぱりと切られていることで画面がまとまりを持つことなく、個々の要素が分断されている。この個々の木のありかたがスタッカートを刻む音符のようなリズムを持ち、堀氏の作品としては特殊な軽快さを獲得している。


他に注目したのは小品のうちでもっとも大きい、青い作品で、この青も新鮮なものに感じられた。全体に、昨年の地中海ギャラリーで見られた作品から、かなり大きな色彩上の変化がみられる。褐色のぼう洋と膨らんでいくような色から、緑、青を中心とした、どこかクリアな色相の画面へと移行しているが、画面それ自体の物理的な大きさから、やや拡張し溢れていくような感覚は依然として残っている。Mキャンパスの使用も含め、この作家は恐らくメタモルフォーゼの途上にあると推測できるが、そのような中でも確実に色彩を質にしてゆく、絵の具への働きかけ方は、確かなものとして堀由樹子氏の中にあるのではないか。


●堀由樹子展