吉祥寺A-thingで展示されている古谷利裕氏の絵画作品は美しい。その色彩の鮮やかさは、古谷氏の作品を見た事のある人にこそ、より強く働きかけるのではないだろうか。この展覧会は古谷氏の旧作からギャラリーが選んだもので構成されているということだが、恐らく今回の展示は「今まで見のがしていた」人が古谷氏の作品の魅力に初めて接する良い機会であるというだけでなく、「今まで見て来た人」が、改めてかつて見た作品に再会する、つまり「出会い直す」ことができるという意味で興味深いと思える。


僕は今回の出品作の多くを、昨年のIBMギャラリー及び一昨年のギャラリーアートポイントでの個展で一度見ているのだが(参考:id:eyck:20040128、id:eyck:20050506)、今回の「再会」ではその時よりもくっきりと、古谷氏の作品の、ごくまっすぐな意味での「美しさ」が感じとれた。この美しさを感受するのに、事前の知識は必要がない。晴れ上がった夏の空を見たり、太陽に照らされた新緑の緑を目にしたりして、そこに美しい、という感覚を持つのに教養とか美術的訓練の備蓄は不要なのと同じだ。前回の個展に際して僕は、古谷氏の作品にある種の「苦しさ」、見るものに一定の集中力を要請する何事かを感じたが、今回の展示では、そのような感覚は後退し、まず何よりも画面のフレッシュさに触れることができた。


古谷氏の作品における色彩のビビットさの特質は、それが単純なコントラストの強さや絵の具の彩度の高さによって形成されているわけではない、という所にある。ここで展示されている作品のほとんどが、下地の塗られていない、褐色の繊維の色の濃いキャンバスにカラージェッソ(当然発色が特別良いものではない)で描かれているが、そこで使われている色彩も、ターコイズブルーやウルトラマリン、アンバー系の茶色といった具合に、明度としては地のキャンバスと大きな落差を作るものではない。むしろ狭い幅の調子の中で、微妙に混ざりあいつつ、しかし決して鈍くなることがないように制御されている。その絵の具が、ざらりとしたジェッソ独自の質感と共に、受け止めた光を押し返していくかのようなのだ。2点ほど、下地の施された、明るい白のキャンバスに暗い茶色とやや鮮やかな赤茶色で描かれた作品があるが、色彩のダイレクトさという意味では、細かいタッチが画面全体に点在しているそれらの作品よりも、褐色の地にたっぷりとした幅を持った筆致がゆるやかに重なりあう、コントラストによらない作品の方が強いと思える。


もちろん、古谷氏の作品が過去の展示の時に示していた、独自の複雑さ・抵抗感は、直感的な美しさを感じた後から、むしろよりしっかりと感知される。スクエアのキャンバスの中程、周囲に微妙な余白を持ちながらいくつかのタッチが交叉してゆく作品は、個々の筆跡が何かしら他とは違う性格をもっている。それは例えば方向であり、速度であり、カーブする角度であり、筆圧の強弱であり、色あるいはその混ざりあい方であり、太さであり、またはそれら全てだ。これらの個別の絵の具の痕跡には、それらが置かれた時の時間が凝縮されているように感じる。はらりと一見軽く置かれたそれらの絵の具が、一度注視すれば確かな集中力と明晰な意識に基づいて置かれていることがわかる。それぞれのタッチを追う時、絵の具のスピードやもたつき、摩擦力、進入角や離脱角の総体が、運動として現れる。そしてその運動の積み重なりが、画面を一つの社会のように組織している。


古谷氏の絵画は、意外なくらいイマジネイティブだともいえる。そこで感じられるイメージは、例えば画面が何かの風景に見える、というものではない。見るものの視覚だけでなく、そのマチエールが喚起する触覚や、乾いた表面が呼び起こす匂いの感覚といった五感全体に働きかけるもので、それは知覚の記憶全体を呼び起こすようなものだ。その諸感覚の呼び起こされ方が、トータルとしてイメージ、映像的では無い、もっと総体的な、何ともつかないイメージを立ち上げる。古谷氏の作品が抽象的でありながら観念的でないのは、あくまで具体的な画布や絵の具や道具が仲立ちする、この世界の現実から作品を組み上げているためで、その組み上げ方には確かな技術が介在している。が、その技術はアクロバティックなものというよりはむしろ、世界との抵抗感に改めて接する為の、センサーのようなものではないだろうか。


このような古谷氏独自の骨格に変わりはないにも関わらず、冒頭で書いたような「美しさ」が前面に出て来たのは、出品作を選び、展示も主導的に行ったというA-thingの、圧倒的な「目の正しさ」に基づいていると思える。古谷氏は自らのwebページ「偽日記」でくり返し、展示の効果に依存するような作品ではダメなのだと語っているから、このような書かれ方は納得し難いだろうが、しかし今回の展覧会が、明らかにA-thingという場所と古谷氏の作品の、幸福な出合いによって、単なる再展示ではないモノ、やや大袈裟に言えば「生まれ変わり」とも言いたくなる「過去作品展」として成立していることは疑い無い。ここでA-thingが行っているのは、厳格な展示というよりは、ふと作品の下に、その作品とかかわり合うような色の本を置いたり高さを少し変えてリズムを作るような、どちらかと言えば遊びっぽいラフな感じのものだ。だがその、直感的で、ちょっと微笑ましいような展示が、瞠目するほど古谷氏の作品のポテンシャルを引出している。


こういった「ラフな正しさ」は、教養を積めば得られるというものでもなければ、作品を鑑賞した経験をやたらと備蓄すれば獲得できる、というものでもないだろう。それらをどちらも踏まえながら、どちらも軽くほうり出してしまうような知性がないといけないのではないか。こういった深い目が、特に何の準備や勉強をしているわけでもない、ふらりと立ち寄ったような人にも作品の魅力を橋渡ししていけるとすれば、ギャラリーのあり方としては理想的だろう。こんな事は本当に希有で、“ゴミ捨て場に置かれていてもかまわない作品を作る”と述べていた作家が、はからずもこのような画廊オーナーに見い出されているというのは、美術の狡知、というものかもしれない。


●古谷利裕展