日本はレオナール・フジタを何故今こんなにも屈託なく消費しているのだろう。根本的な所で違和感がある。国立近代美術館で行われている藤田嗣治展を見ている間、ずっと疑問が消えなかった。結論を言えば、フジタは生涯を通じて、重要な作品を描き続けた画家ではまったくないと思う。だが、その、フジタの貧しさは、砂を噛むような苦々しさを通じて、日本という場所で受け止められなければ嘘なのではないか。


フジタは基本的に地の画家だということは確認できた。それは画面の物理的な地の事でもあり、地面、ということでもある。フジタにおいては、この二つが不可分にある。空間も何もない、ただ画面を覆い尽くす地(面)が、うねうねと奇妙なのっぺらぼうさを示しながら、それが僅かな徴によってなにかしらの図柄を示していく、その図柄が「まるで風景のようにも、女性像のようにも、戦争画にもみえてしまう」というのがフジタの主要な作品を特徴づける。


このことが見えてこなければ、1914年にまだ無名だったフジタが描いた、一見なんの変哲も無い風景画「巴里城門」の裏書きに「快心の作」と記されていることがよく了解できない。しばらく後にサロンに認められ活躍しだしたフジタの代表的な作品群は、風景画とは印象がずれる裸婦や人物像だからだ。だが、例えば1922年の「横たわる裸婦」を見て気付くのは、白いシーツの起伏の上に横たわる裸婦は、その表面においてシーツと完全に連続している、一種の風景画だということだ。フジタの裸婦にはそのくらいエロティシズムがない。フジタは裸婦を、あるいは人を描いていない。ひたすらに地(面)を描いていて、それを流通しやすく「作品」にするために、かりそめに裸婦や人物が要請されているにすぎない。フジタの描く人物にはなんの欲望も感じられない。その反照のようにフジタが執着しているのは、あくまで地(面)だ。


1922年の「横たわる裸婦」では、「巴里城門」で描かれた、オーカー系の絵の具で覆われた地(面)が起伏を見せながらやがて画面上部で右下がりの線を描き、そのままの色彩が空となっているのとまったく同じように、白いシーツと裸婦が狭い幅の起伏をなし、裸婦の描く稜線がそのまま地平線となっている。更に気付くのは色彩の排除だ。フジタは「巴里城門」以降、1917年の「パリの要塞」や1918年の「パリ風景」と、一度手ごたえを掴んだ「地面の描写」を相応に粘り強く追っているが、「巴里城門」で僅かに、ぺったりと画面を塗り尽くすオーカーの中に微妙に赤を感じさせる茶色を置いて以降、既に「パリの要塞」でほぼグレーの画面に落ち着いている。東京美術学校時代、黒の使用によって黒田清輝と対立したということからも推測できるように、このような色彩の排除はフジタの生来の資質だったのかもしれないが、売れっ子になってからもその画面に、装飾的というよりは化粧のように裸婦の乳首などに紅をさすだけで、その根幹はやはりモノクロームで形成されている。


フジタが苦心して作り上げた堅牢な地(面)が、フジタにとって全てだったのではないかというように、このモノクロの地(面)の連続する画面が以降も続く。1923年の「裸婦」は立像だが、しかし背景の布から浮き上がる裸婦は、やはり化粧じみて今にもはがれそうな薄い赤と植物模様で隠された布の起伏が、そこだけ「何もなされい」ことで裸婦となっている*1。典型的なのは1925年の「砂の上で」で、地平線すら排除され、作品を均一に埋める砂の凹凸がそのまま裸婦になっているかのようなこの作品は、化粧さえ施されずフジタの骨格を露にしている。1927年「横たわる裸婦」はシーツとカーテンに埋没した裸婦で、ここでシーツと裸婦を隔てるものは極小にまで縮減している。ただただ続いて行く、モノクロームの波うちの大小が、シーツとなりいつしか裸婦になる。


ここまでで見えて来るのは、「技巧派」とされるフジタの、意外なくらいの技術の幅の狭さであり、むしろ臆病なまでに自信のない筆の運びだ。自らの作り上げた特殊な体系だけをひたすら磨き上げた時、そこには比較対象される者がないため「上手/下手」はほとんど問われない。フジタの技巧とは、そのような「上手/下手」の判断を一切拒否するような技巧であり、奇妙な進化の袋小路に入った絶滅種のような閉塞感が、そこから発生している。僕はここで、フジタが下手だったと言いたいわけではない。むしろ、確かに達者な画家であったのだろうフジタが、そのように周囲から自分を特殊化し、立てこもらざるを得なかった「条件」を見るべきなのだ。


そういう意味では、フジタの画面に闊達なものが見えてくるのは帰国後の作品で、1936年に描かれた「自画像」は、和室にいるフジタの像が、明解な画面構成の中でクリアに描かれ、充実した身体表現などもバランスがとれ、一種の健康さを取り戻している。沖縄に取材した「孫」「客人」(1938年)などは、土着的な風俗を描きながらタッチは複雑になり、色彩も一気にその数と鮮やかさを増して、貧しさに篭城せざるをえなかったパリ時代の作品よりも遥かに洗練された豊じょうさを持っている。冷静に見るなら、このころの数点がフジタのマストと言うべきものだが、当時のフジタが、「巴里のエスプリ」を感じさせないと言われた事は、つくづく同時代の日本国内の判断が表面的でしかなかった事を示している。


だが、この頃のフジタには、確かに闊達さはありながら、どこか重要な「抵抗」を失っている。上手さで描いている、といならばまさにこの時代だろうが、フジタのどこかに刻まれてしまった貧しさは、やがて描かれる戦争協力画で再帰する。1943年の「アッツ島玉砕」では、ふたたび連続するモノクロームの地(面)が大画面を窒息させてゆく。ここで混ざりあい折り重なりあう兵士の地獄図のような折り重なりの起伏は、はっきりと「巴里城門」に連なるものだ。1944年の「血戦ガタルカナル」、1945年の「サイパン島同胞臣節を全うす」と、このフジタの貧しさは、まさに西欧との戦争という局面で再来する。ここでパリにいた頃と同じ事態がフジタを襲ったのは、フジタが、文字どおり「あの頃」と同じく「西欧」と直に対面したからだろうと思える。


戦後のフジタは、何にも対面せず一直線に退行してゆく。その引きこもり方は、日本にも守られていないし、フランスに国籍を移しそこで死ぬことを決めても「西欧」に触れていない。そこには世界も、歴史もない。現代の幼児的現代美術はフジタを反復している。最初に戻れば、フジタを縛り上げていた貧しさを、なぜ今の日本の観客は、平気で「世界水準」などと呼び喜んでいるのだろう。条件は何も変わっていないのだ。忘れるための回顧には、政治的な影すら感じられる。なぜ「今」なのか。事実関係、舞台裏の話しが知りたいのではない。結果的にいま、この時代にフジタという名前が召還されたとき、そこに明らかな時代への意図が発生する。そのことに気付かないような神経であれば、めったにフジタの名を(日本語で)呼んではならないし、もし分かっててやっているなら犯罪的だ。フジタはいまだに利用されている。「日本画壇は、はやく世界的水準になって下さい」というフジタの言葉は、そんな日本をあらかじめ予見した、嫌味では済まない“呪いの言葉”として日本を規律しているとしか思えない。


藤田嗣治

*1:ボッティチェルリ、モディリアニとの影響関係についてはここでは触れない