村上隆氏を今批判している声は、美術的というより社会的文脈しか見ていない。村上氏が「文脈」の人であり「情勢」の人であったことは事実だと思うが、しかし村上氏はそこから外れる部分も持っていると思う。そして、僕が思うのはこの“外れた部分”こそが村上氏の貴重な部分だということだ。


事の発端の概要は以下。村上隆氏が、子供服メーカーと著作権問題で争い和解した。

産経新聞のwebページ

村上隆氏のコメント

しばらく前の報道だった。この問題に関しては、東浩紀氏が村上氏に対して疑問点を指摘している。

東浩紀氏のコメント


僕も東氏の指摘はごく正論だと思う。あえて言えば、村上氏は2000年代に入って美術家としては一貫して「悲惨」を生きており*1、今回の著作権問題は、その悲惨さの部分的な側面に過ぎないとも思うが、とりあえず村上氏の「コンセプト」が大きな揺らぎを見せた(というよりは見ようによっては崩壊した)のは確かだと思う。なるほど、と思い、忘れていた。しかし、この後(正確には報道のあった後、ではなく東氏の犀利な指摘がアップロードされ伝播した後)、web上で村上バッシングとも言えるコトバをいくつか見て、何か変だ、と感じた。


この違和感の原因は二つある。まず第一は、村上批判をしている人の発言が、ほぼ東氏のフレームに沿って行われていて、一歩もその枠を出ず作品を見ていないということだ。次の違和感、というか感慨は、そのような批判は、村上氏にほとんど届かないだろうな、という事だ。


例えば東氏は、今回の村上氏のメーカーとの和解以降、自分が所有している「DOB君」の作品から「オーラ」が消えているという。ここで言われた「オーラ」は、作品それ自体から発しているのではなく、村上氏の組み上げた「文脈」から発している。「DOB君」自体にはなんの変化もなく、それを作った作家の「コンセプト」が色褪せただけだからだ。東氏によれば村上氏のコンセプトは「美術と市場の差異」に基づいた動きにある。そこが揺らいでしまえばそれまでだ。そもそも僕は東氏の所有する作品を知らないから、このことをとやかく言う理由はない。だが、東氏に続いて村上批判をしている人は、そもそも村上隆という作家の作品を見て、その上で物事を言っているのだろうか。そうは思えない。そこには作品に基づく価値判断がない。


僕の村上隆氏への判断は一貫している。一昨年にも書いているからリンクを張るにとどめるが、(参考:id:eyck:20040523、及びid:eyck:20040526)、要は1990年代に描かれた村上氏の絵画作品のいくつかは単独で面白いと思う。が、それ以外の仕事は退屈だ。彼の「コンセプト」は、いくつかの「村上絵画」にくらべればさして面白くもなかったし、それは今回の和解騒動があろうとなかろうと同じではないか。


次に、村上氏はこのような「批判」によって影響を受けないと思う。現時点で、村上氏は美術家とビジネスマンの二重性を生きているのではなく、単純にビジネスマンとしてだけ生きている(そうでなければ、このような裁判とか和解とかは発生しない)。恐らく村上氏に対して現実的に有効な批判は1点だけだ。それは、ビジネスを成功させるならば、逆説的だが美術家としての比重を高めるしかないだろう、そして、それは絵画の仕事に集中する以外にないだろう、というものだ。僕は村上氏の作品の価格が、村上氏の死後も維持されるとはまったく思えない。それどころか、現状では村上氏の生存中も危うい。理由は東氏が指摘する通りで、「コンセプト」で価値補償されていたものは、そのコンセプトが崩れるか古びるかしてしまえばバリューを失うからだ。


そしてその事に、村上氏はとっくに気付いているのではないか。「美術と市場の差異」に基づいた戦略とかが、あと20年有効性を持つと、本気で思っていたら村上氏はこんな裁判はおこさないし和解もしない。村上氏自身が、自らの作品価格の下落を予感しているからこそ、手っ取り早く現金化できるものを引出した、と考えなければ今回の「和解」は理解できない。普通に考えて、話題作り、という観点からも、自らの正統性を完全に表明するためにも、この裁判は最後まで争われることが必要なはずだが、それが「和解」した、というのは純粋に金銭だけが問題になっていた事になる。


この状況から抜ける道は1つしかなくて、それは戦略とかコンセプトを遥かに上回ってしまうような作品を作る、という事だけだ。それは作品の射程距離を「今」や「明日」などという刹那的な短さにおかずに、100年とか、500年とかの単位で考えることに他ならない。狩野永徳の政治性やジオットの経済的野心にあった「戦略」が消え去っても、彼等の作品のバリューは維持されている。「美術市場」に向けてではなく「美術(史)」に向けて製作をしてゆく、それ以外に、作品の価値を維持向上させる手段などありはしない。くり返すが、村上氏は一部の絵画作品においてこそその可能性を見せている。


多分、僕の書いたような事は的を外しているのだろう。「的確」な人は今後も村上氏を(作品を見る事なく)批判しつづけ、村上氏はそんな事におかまいなくビジネスに撤退しつづけ、村上氏の作品は適当に価値を下げた後一部の好事家の間だけを「変なオモシロアート」としてのみ循環し、ころ合いを見計らって国内の美術館が1回くらい「再評価」をしたりしなかったりするだけだろう。どこまでいっても誰も「作品」にも「美術(史)」にも触れない。『村上隆=文脈』などに関係なく、作品を作ることにしか可能性などない。当たり前だが、『村上隆』をパージする可能性は村上氏自身にもあるはずだが、そんな事は他人が言っても意味がないのだろう。

*1:簡単に言えば、日本の奇妙な商業デザインや工芸品を欧米美術の文脈の中でエキゾチックな「アート」として売り込み、植民地主義的な「外人」を喜ばせて経済的に成功し、その成功を日本に逆輸入して「芸術としての御墨付きを本場でもらった」としてしまう構造が、200年前からの無意識的ジャポニズムのパターンを意識的に反復していて(つまり大して新しくなどない)、しかもそのパターンが2001年以降見事に消費され行き詰まりを見せていた、ということだ