アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」を見た。完結していないので暫定的なことしか書けないが、面白いのが話数順序の操作だ。簡単に言えば、このアニメは、物語りを順次理解するというプロセスが必要とされない。そういった意味では、原作を知らないと楽しめないというネット上での一部の指摘は外れていると思う。現状の商業アニメ(ことにキャラクターが最初の掴みとなるもの)の受容では原作云々以前に「理解」の必要度が低いのであり、記号的サービスがある程度満たされていれば、商品としてなりたってしまうという製作側の開き直りが、作品全体のテンションを維持させているように(現時点では)見える。


実際、このエントリで作品世界の諸設定を書き列ねる必要を感じない。冒頭、いきなり劇中劇から始まるが、そこでは陳腐なストーリーが劇画的お約束を誇張され、安易さが増幅されて示されている。この時点でアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」は自らの「在り方」を宣言する(だから、この回が第一話であるのは十分意味がある)。要するに、ここでは語られるストーリーや展開の流れはまず棚上げされ得るし、それでも視聴者は基礎的な記号から予想される作品世界をある程度把握できてしまう。学園に制服を着た高校生がおり、宇宙人がおり、未来人がいて超能力者がいる、それを語る普通の人がいる、といった事柄だけが示されてしまえば、あとは話に繋がりがなく、順番が乱され、SF的決まりごとの細部を理解しなくとも日本のテレビアニメーションは困らない。アニメ内のアニメ的要素に突っ込みを入れる、視聴者のメタ的視点を代替している主人公を更に外から見させられる構造も、それを補強する。


無論、時間軸の混乱それ自体が「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品の骨格において重要なのだ、という事は、数話見ればうっすらと示されてくるし、ということは製作側が「単なるめちゃくちゃ」をやっているわけではないことも了解できる(この作品は慎重に構成されていて、結果的にこの順番で見なければいけないと感じる)。しかし、そのような骨格よりは、とりあえずは表面を形成する記号とその動きが重視されているのが「日本のテレビアニメーション」なのだ、という認識が、この作品の製作を支えている。


「表面を形成する記号とその動き」が大事なアニメでは、ニヒリズムではすまない、現場の情熱的な作業を必要とするだろう。物語に依存しない分、ディティールの精度が商品価値になるからだ。アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」では、単純に言ってヒロインの動きが過剰だ。単に歩く、話し掛ける、うなずく、といったひとつひとつの仕種がオーバーアクションに作画され、そのタイミングもほとんどミュージシャンのプロモーションビデオのようにリズミカルに決められている。


上で動き、と書いたが、それは詳しく見れば静止した状態から動き出すポイント、また動いているところからピタリと静止するポイントの歯切れの良さ、と言った方が適切だろう。動きそれ自体は、ある決まったパターンの反復となっているからだ(だから、例えばウォルト・ディズニーの「バンビ」で実現されている極端に流麗な動きとは、まったく異質な“アニメーション”となっている)。リズムが「涼宮ハルヒの憂鬱」の基本的な武器で、エンディングのダンスシーンは、そのことを明確に示すクオリティを持っている。すべての登場人物がキャラクタータイプの類型でしかなく、およそ心理的な内部は持っていない。現状ではテンポと流れを切っていく切断のインパクト(これがいわば休符の役割を果たし、全体で「リズム」となっているのだ)だけで勝負しているのが「涼宮ハルヒの憂鬱」で、これがどこまで続くのかは見物だと思う。


しかし、「涼宮ハルヒの憂鬱」が、単なる「物語り失効後のありがちな記号遊び」とは見えないのは、作画だけが理由ではない。僕が想起するのは高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」「優雅で感傷的な日本野球」といった小説で、ここでは高橋氏は、一見繋がりが明確では無い細部を“散乱”させながら、全体としては恐ろしく古典的な物語りを回復させようとしていた(蓮實重彦が「この作家はなかば本気で森鴎外をライバル視している」と指摘していたのは、このblogでいつか書いた)。商業アニメのくり出す記号パターンの果てしない氾濫の最前線にあるように見えながら、実はその臨界部で、なお可能なドラマの回復を狙っているのが「涼宮ハルヒの憂鬱」なのかもしれない、という予感は考え過ぎだろうか。


先述の通り、進行順序の入れ替えははっきりと時間が主要なモチーフであることとリンクしているし「凡人」が「非凡への希求」へのなにかしらのポイントとなっている点、ハルヒの全能感だけが前面に出ているように見えながら、実は一番無知なのがハルヒなのだという点も、かなり戦略的な面を形成しているように見える。「全能感」は、日本のアニメにとって重大なテーマだと思えるからだ*1。無駄に甘酢っぱいとか切ないとかいった、どうでもいい簡単な恋愛物に陥没しないで、ドラマ(≒全能感)の不可能性と不可避性みたいなところに触れることができれば、オタク的領域だけでなく、そこからはみだす広がりが持てるのではないか。


徹底的にオープンエンドにして「終わらせない」という逃げ道もあるだろうし、逆に妙な「落とし所」を作って、ネタのつもりだったベタな陳腐さに着地する、というパターンもあるだろう。個人的には既に「どう終わるのか」に関心が移っているが、あくまで細部の充実が商品としての浮沈なのだろうから、スタッフは気が抜けないのではないか。イメージとしては「ほとんど分解しているように見えながら、しかしその分解のあり方がある世界を現出させている」という感じになれば理想的だとは思う。言うだけなら簡単だが、いずれにせよこのスタッフはなんらかの最終的イメージを持っているような気がする。だからこそ、この切った張ったの無茶を自信満々に繰り広げていると感じられる。

*1:映画ハリー・ボッターなどを見れば、それはアメリカ文化にも言えるのかもしれないが