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国立西洋美術館「ロダンとカリエール展」で見ることができたロダンの彫刻「目覚め」について。1887年頃の制作とされている。高さ52.7cmのブロンズ製とカタログにある。跪いた裸婦像で、側面が荒く上面は比較的平滑な台座にすねを接し、大腿部を浮かせて上へ伸び上がるヌードは、両腕を後頭部で組み肘が顔の高さまで掲げられている。この結果、裸婦の上半身、ことに胸の筋肉が引き上げられ乳房が強調されて見える。頭・顔はやや向かって左に傾けられ、首の側面が伸びている。
全体が台座から、複雑な曲線を描きながら上昇してゆくような動きを持った像なのだが、その速度は決して早くはなく、設置面の膝から腿、しっかりと張り出した腰、左右へ広がる背筋、突き出された胸、斜上へと螺旋を描く上腕部、鋭い肘、後頭部へ落ちる手、ねじれる首、傾いた頭部と、身体のボリュームが有機的に展開しながらゆっくりと、いわば質量をもって引っ張り挙げられてゆく。また特異なのが前面部で、台を成す粘土が裸婦の大腿部に沿って長く盛り付けられ下腹部にまで固着している。
「目覚め」から発散されているエロティシズムは、指先で一つ一つ押さえ込まれて行く粘土が、しかし内部から盛り上がって行くような裸婦の肉体の力動を形成してゆく事から産まれている。身体を指の腹で押し、その反発力をそのまま像にしたような有り様は、強い力で押し込められている筈の土が、まるでそれ自体で生成しているようにも見える。この像のあからさまな触覚性、というよりは生理的感覚は、膝から下腹部までこびりついた、台座から延長された不定形な粘土によって強調されている。ほとんど何の造形的根拠のないこの粘土は、裸婦の股間を隠すというよりは、はっきりと女性器に侵入していこうとするムーブメントを持っており、露骨に下品で、そして同時に異様な何事かを作品に付与している。
この「目覚め」の、全体に上へ展開してゆく方向に抵抗を加えているのは、胸部からみぞおちにかけての前面部の、はっきりと水平に観客の方へと解放されてゆく動きで、このことによって像全体がねじれを引き起こす。胸筋によって釣り上げられながら左右へ広がる乳房の量塊と、肋骨の上に厚みをもってついた脂肪の起伏は、見るものに真直ぐ向かって来ると同時に、背後に回って背筋となり背骨へと集約して像全体をきつく拘束している。ダイナミックな正面に比べて表情の少ない背中は、しかし危うく単なる性的欲望が流れ出しそうになる「目覚め」という作品に縛りをかける重要な結節点となっており、突き出された両肘と共に像に緊張感を支えている。
この作品でロダンは顔を軽視している。肖像彫刻以外の裸婦像での顔の無視は他の作品でも意図的に行われており、トルソという、彫塑における伝統的な規範にのっとった結果のようにも見えるが、しかしロダンにおいてははっきりと女性の身体への物としての捉え方から導かれていると予感させる。女性像から人格性を剥奪してゆく指向は、女性の頭部を主題とした「カミーユ・クローデル」(ブリジストン美術館所蔵/参考:id:eyck:20050713)などの作品でよりはっきりとするが、しかしその彫刻が、周辺の空間を異化させ変容させてゆく有り様は、ロダンによる暴力的なまでの「在ること」への衝動から発生しているように思える。女性の肉体を扱わない場面でのロダンは厳しいデッサンから物質の存在を切り出していくが、特定の個人モデルではない、「女性(の身体)像」では、流れ出しそうになるボリュームをなんとか踏み止まって、ぎりぎり彫刻とそうでないものの間に、ゆらぎを持って放置してしまうような物も見られる(1915-17年の「フギット・アモール」など)。
「目覚め」では比較的作品としての完成度が保たれているが、上述のように前面に付着された不定形な部分にも、そのような揺らぎは感じ取れる。他にも未完成のままほうり出されたような作品が多くあり、また肖像彫刻でも、モデルの像/イメージから粘土などのマテリアルが溢れる場面が見られる。ロダンの、物質というものへのアプローチはヌーメナルなものに触れようとする衝迫に基づいていて、それは肉体というモノを通した時にのみ実現される。展覧会自体は既に終了している。