早くも忘れられようとしている話題だろうか。サッカーワールドカップ、日本代表の戦いでは、日本サッカーを日常的に覆っている自己保護的な幻想が、現実の力によって突き崩される有り様が見えた。人事ではない。僕自身も「もう少し高いレベルで戦える」と思っていた。これはきっと代表だけの話しではない。Jリーグにもどこかサッカー自体に触れない、サポーターやチームの自己幻想(≒一体感)ばかりを追う傾向があったと思う。それが代表にまで連続している。


もちろん、どこの国でも自国代表に夢を見る。しかし、日本に特徴的なのは、「現実に触れていれば出来た事前の対策を怠り、それが世界中が注目する舞台で露出してしまった」という展開だ。選手個々人の自覚、あるいはメディアの問題というだけではない(メディアというなら、イタリアなどもひどい)。日本は現実に“触れられない”のだ、と言った方が正確かもしれない。漠然とした日本サッカーのムードがあの代表を作り上げたと思える。だから、今の日本のサッカーにあるのは、どことなく「悔しい」という感じとは違う、“恥ずかしい”に近い雰囲気ではないか。全力を尽くして戦ったという実感ではない、自意識を取り繕わざるをえないような気分が充溢している。


トリニダード・ドバコは人口130万人の、豊かではない国力の中でいっぱいいっぱいの戦いをした。アメリカは国内の関心が薄い中で、その条件を背負って敗れた。イランは政治的な孤立の中、満足に対外試合もできない準備期間でクロアチア人のイワンコビッチ監督の指導だけで戦った。どこも逃げようのない現実に立脚しながら、故にサポーターは自国代表に希望を託した。日本代表は巨大企業がスポンサーにつき、国民的関心も(代表に関しては)それなりに集めていた。コスタリカトーゴが見たら、よだれをたらすような施設や国際的人脈も保持していた。そして、ホーム開催の前回大会の甘美な?思い出があった。ブラジルが相手と決まれば心底震え上がるのではなく、コンフェデレーションズカップアトランタ・オリンピックを引っぱり出して「もしかしたらヤレそう」と思っていた。そうではなかったのだ。


露骨な「取り繕い」が川淵会長による、オシムへの代表監督要請のフライング発表だ。このパフォーマンスによって、冷静な敗因分析は消えてしまった。そしてそのパフォーマンスに、日本中が喜んで乗っている。日本代表の「素」を露出したジーコを忘却して、旧ユーゴをワールドカップベスト8に導いたオシムに丸投げしてしまえば、すべての「恥」にカバーを被せてしまえる、「外国人監督」という存在に投げてしまえる。こういう、あられもない「取り繕い」が全面化している。


ディフェンスの強化はどう図ったらいいのか?決定的なストライカーを育てる方策は?Jリーグはどこまでが健全な運営なのか?韓国との親善試合を増やすべきではないか?現状のキリンカップに意味はあるのか?こういった現実的な話はあまりメディアに乗らない。オシムの下でのフォーメーションなんかを楽し気に夢想している。もちろん良識あるサポーターはwebでもオフラインでもそれなりに議論しているが、どこか閉鎖的な印象がある。サッカー協会は自己保身的なことばかり考えている。このままでは、2010年の南アフリカに立つことすらおぼつかない。アジア勢は今大会で全て一次リーグで敗退している。枠が減ると考えて当然だろう。そしてそこに、イタリア相手に善戦したオーストラリアが入ってくるのだ。


オシムの代表監督就任それ自体は、現実的に考えられる範囲では了解できる。浦和レッズを見守っているものには、2005年のナビスコカップでの、レッズとオシム率いるジェフとの対戦は記憶に残っている筈だ。とにかく実績はある。年令がひっかかるが、オシム自身が4年契約を望まず、2年で一度様子をみろと言っているから、少なくともオシム自身はリアルな感覚、日本代表の実力だけではない、シビアな自己イメージを持っていることは推測できる。だが、こんなにも早急に決めていいのか?この決め方で、覆い隠されるものはなんなのか?協会の責任問題、などという水準の話しではない。ジーコが露出させた、日本のフットボールの丸裸の状態が、新たな衣装で覆われてしまうのではないか?少なくとも、年令的には一度オジェックを考えるべきではないか?


自己イメージとの対峙、現実に触れ続ける環境、基礎的なトレーニングの量と質。それが日本サッカーに欠けているものだ。他は瑣事だと言っていい。このことに気付いているのは、代表チームの中では中田英寿なのだろう。僕は今回のワールドカップでの中田のパフォーマンスは悪かったと思う。ことにそのパスの精度の低さは酷かった。なまじ普段あんまりな動きをするアレックスの走りがよかっただけに、左サイドへの放り込みのダメさが目立った。ゲームの敗因は柳沢に代表されるフォワードの問題よりも、中田・中村を核とする中盤の精彩を欠いたプレーにある。それをカバーするためか、中田の運動量は日本代表の中では多かったが、その分足が止まらざるをえない場面もあった。しかし、それでもなお、中田は今回の結果に対して数少ない「悔しい」と言い切る条件を持った人間だと思う。彼は自分の持つ切迫感をチームに広げて共有することができなかった。三浦カズと話し合うなど、独自の努力をしながら失敗した。だが、これをもって中田を非難することはできない。


ジーコは批判されるべきなのか?すくなくともゲーム中の采配は下手だった。しかしそれがはっきりしていて尚ジーコに下駄を預けたのが2002年から2006年までの日本代表だ。ジーコはドイツで日本をなんの誤魔化しも無く世界に曝した。そこで暴露されたものを慌てて隠してはいけない。具体的な強化、リアルな分析に基づいた強化がされなければならない。


僕はJリーグの選手の「労働環境改善」が重要だと思う。年棒の話しではない。練習やコーチングを含めた、もっとトータルな話しだ。なんだかヒステリックな人が、こうなったらJリーグを制裁的に厳しくしろ、と言っているがそれはただのヒステリーだ。ゲームをスリリングにする条件は必要だ。それと平行して「Jリーグで働く魅力」、言い換えればJリーグで持続的訓練が行なえる環境整備を考えるべきだ。Jリーグでは、厳しい経営環境の中、平気で成長半ばの選手を黙って切り捨てている。力のない選手は結果的には消えなければならない。しかしその前に、トレーニング環境やコーチの質向上のために、それこそ日本代表の資金をもっと割いてもいいのではないか。選手をJリーグの中で伸ばすべきだ。今回のワールドカップでクリアに見えた「個の力の不足」は「Jリーグで成長する選手の不足」ということだ。


トップクラスの選手を海外に送り込むことだけが考えられて、中堅以下の選手が訓練の為の正確な指針も与えられず、悪い環境で使い捨てられている。こういう観点では、東京FCは比較的良いチーム作りをしてきている。浦和レッズが危険だ。なまじ強いから、凡庸な監督も交代できず、能力ある若手を育てきれていない。こういった点を底上げしなければ、代表が強くなる筈が無い。リタイア後のケアはそれなりに勘案されてもいるが、これももっと充実すべきだ。初めてボールに触れる子供達を地域で指導するのが、キャリア途中で辞めた人々の筈だ。彼等が、「Jリーグで働くのは素敵な事だ」と子供に言えないなら強いストライカーなど出てこない。基礎になるのは観客動員だが、プロ野球のヤクルトの取り組みなどは参考になる筈だ。


こういう事を、言うべき人は言っているのだろうか?そしてそれは真剣に考えられているのだろうか?少なくとも、僕のようにレッズとアルディージャの間で揺れながら(つまり「サポーター」にならないでいながら)、日本のフットボールを見ているような人間の元には聞こえてこない。熱心なサポ内部で、どんなに議論が消費されていようと現状ではそれはどこにも届いていない。届かなかったパスは無かったのと同じだ。それが明確になったのが2006年ドイツ・ワールドカップでの日本代表の270分だったのではないか。