武蔵野美術大学の美術資料図書館で「見ること/作ることの持続」展を見てきた。藤枝晃雄氏により選定された作家による展覧会で、7名全員が武蔵野美術大学の卒業生で構成されている。この中で最も強く印象に残ったのが依田順子氏の作品で、名前も作品も初めて知った。展覧会自体は「後期モダニズムの美術」という副題からも推測されるように、個別の作家の作品というよりは藤枝氏の問題意識を強く感じさせる『作品=展覧会』となっていると思えるが、ここでは依田順子氏の作品について重点的に書く。


「Untitled #11(The Sea)」と題された作品は1997年に描かれていて、縦227.5cm×横181.5cmの大きさがある。小さく折り込まれた和紙を細い紙紐でくくり、それをボード一面に接着して、そのボードをキャンパスに固定している。和紙のピースの隙間から覗く地にはペインティングがされているのがわかる。また、接着された和紙はやや赤味を帯びたグレー、紙紐は明るい茶色で、画面は基本的にこの色で覆われている。その層に1本の断差による線が埋込まれていて、大きなカーブを描いている。具体的には、画面向かって左辺下1/4弱のところから下降する線は、下辺に接する前に徐々に右上に上昇し始め、画面右辺に接する前に今後は画面の内側へ曲がり、画面上部で水平になる直前に急な角度で右上に方向転換し、そのまま上辺に抜ける。


折り込まれた紙片は結ばれた紙紐の部分と、そこから広がった部分で表情に変化がある。また、この小さなピースが隣り合う所にはくっ付き合い、隙間が出来る。これらの凹凸が、まるでワラを混ぜ込まれた土壁のように画面を組織してゆく。上述のような曲線が1本走るが、それはいかなる奥行きのイリュージョンを形成することなく、具体的なモノの形象も想起させない。同時にその線は、画面が単一のオールオーバーなものとなることを食い止めている。密集した和紙のピースはまるで紙粘土のようでもあり、油絵の具のようでもある。その圧着のされ方は緊密でありながら、ピースごとの不揃いさや隣り合う場面での断層を覆い隠すような“工芸的”周到さとは無縁で、ひとつ一つの作業の集中力を感じさせると同時に、それが単調にはなっていないことも示している。


依田順子氏の「Untitled #11(The Sea)」には、素材と作家との、対話的な関係が織り成す物質性の再構成がある。再構成という言葉が不用意なら、変容がある。この作品の立ち上げている事態を記述するのは難しいが、和紙や紙紐や絵の具という物が、その特性やあり方をねじ曲げられることなく、しかもそのイメージからずれてしまうような、ある「場」が組み上げられている。この「場」の開示こそ依田氏の製作がたどりつこうとしているものであって、個々の手つきの集積が、システム(手法)に流されることなく、絵画的イメージというようなものに流されることもなく、抵抗感と柔らかさを複雑に入り混ざらせた画面を屹立させている。ここで紙はもちろん絵の具ではないものの、限り無く絵の具に近似してゆく。しかしそれはけして絵の具への擬態ではなく、むしろ絵の具の「絵の具的」なるもの(に基づいた絵画製作)がけして獲得できないような何事かへのメタモルフォーゼとしてある。


ここで言う「何事か」というものは、言ってみれば物(存在)の変態、あるいはその予感のようなものかもしれない。質、という言葉を使ってしまうとあまりに簡単になってしまうだろう。恐らく、この「Untitled #11(The Sea)」のような作品は、ある一定の大きさを必要とする。ここで物理的な大きさがもたらすのは、単純な迫力とか圧力ではなく、むしろある広がりがもたらす抽象性と、そこから浮上する、小さくては知覚できないささやかな感覚のさざめきの集積だ。このような“ささやきの積み重なり”が一定の強度となるためにこそ、面積が要請される。依田氏の構築が成り立たせる作品はいかなる趣味やイメージからも独立して存在しており、その力はほとんどどのようなコンテキストも横断してゆくのではないかと想像させる。


このような作家・作品が日本で十分に知られていないというのは逆の意味で驚かされる(僕が無知なだけではないことは、藤枝氏によるカタログ序文からも想像できる)。最初に評価されたのは海外でだということだが、依田順子氏の作品には基本的にオリエンタルな「ムード」はない。少なくとも「Untitled #11(The Sea)」に魅力を感じる者は、なによりもその唯物的な画面そのものに引き付けられる筈だし、そういう意味では、和紙が素材に選ばれているにはあまりにも「和紙らしさ」におもねる態度が欠除している。事実、言われなければこの作品の素材に「和」紙が使われていることに気付く者は小数ではないだろうか。実際の海外での作品の購入者の動機に、和紙が使われているという事実がもたらす、あるオリエンタルなイメージが含まれていたとしても、あくまで依田氏の作品が「良い」と感覚される最初の要因は、どこまでいっても作品それ自体の強度によるものだろう(むしろ、国内で評価/批判される時に「日本的」なるものが強調される危険性がある)。


展覧会会場では、藤枝晃雄氏の理想、というよりは「主張」が空間全体を覆っているかのような雰囲気で、見ようによってはここまで「コンセプチュアル」な展示も昨今少ない(というか、ない)のではないかと思わせられた。これを結局趣味じゃないかと言ってまとめてしまうのは乱暴だと思うのだが、しかし唯一の立体作家の加藤勇氏の作品が、カタログ写真にあるような大きなものではなく、一種の模型(モデル)のようなサイズのものだった所に、ちょっと「偏向」を感じざるを得ない。他の絵画作家が「作品」を出している中で加藤氏だけエスキースをだしているように見えてしまう。わざわざ一人、このような作家を選んでおいて、なおかつ十分な展示環境を準備しないというのは、少々あんまりな気がするのだが、何か特別ないきさつでもあったのだろうか。


●見ること/作ることの持続-後期モダニズムの美術-