ワールドカップが終わった。決勝のフランス×イタリアはPKでイタリアが勝った。この試合を決定づけたのはジダンの退場で、そのきっかけになったマテラッツィの発言が、いろいろと憶測を呼んでいる。その内容はいずれ明らかになるだろうが、およそ聞くに耐えない低劣なものなのではないか。ジダンは過去何度かこういうキレる事件を起こしているが、それにしても自らの引退試合、しかも世界中が注目しているワールドカップの決勝で頭突きをくらわすなど、余程のことがあったと思わざるをえない。もちろん、いかなるやりとりがあったにせよ、暴力に訴えるのは間違っているし、退場になったジダンがMVPに選ばれたのも間違っている。同時に、ジダンが今大会で見せたパフォーマンスは、特に決勝トーナメントに入ってからは確かに賞賛されるべきものだ。マテラッツィのパフォーマンスも悪く無かった。彼も素晴らしいプレーヤーで、なおかつ、酷い事を(しかも意図的に)言う人間だったのだ。


僕はジダンに同情すべきだとも思わないし、マテラッツィの行為を「サッカーにはよくあることだ」などとしたり顔で容認するつもりもない。ただ、サッカー、ことに世界的なサッカーの奥底に有る「何か」がここで露出したと思う。それは、サッカーにおいては、本当に最高のものと本当に最低なもの、そしてその間にある全てが渾然一体となって人々の目の前に剥き出しになるという事だ。下品で低レベルで差別的で時には暴力そのものみたいな醜い行為と、信じられないような早さと正確さで美しく輝くプレーが、まったく分離することなく、時には同時に発現するのがサッカーで、これを分別することなど意味がない。サッカーの素晴らしい所だけを取り上げて賞揚することも、その下品さをあげつらうことも(ましてやそこに開き直ることも)、フィールドで露呈するものの矮小化にしかならない。


最低な所を切り捨てて最高なものだけを純化することなどできはしないし、もしやろうとすればそれは「最低」の底を抜くような悲惨な「排除」が待っている。逆も同じで、最低なところに居直って「そんなもんだよ」と、ただの現状肯定をくり返すところに輝きなど発生しない。その全てを含有した上で、そこから生まれる抵抗をくぐり抜けた場面に、真に人を興奮させる上昇運動が生み出される。最高点にしか興味を持たないことも、最低点に居座ることも、どちらも単なる停滞にしかならないという観点からは同じだ。人間、というものの最低点と最高点を結ぶ“幅”が漏らされることなく繰り広げられるのがサッカーで、こういった“幅”を否定するいかなる者も人間を『見る』事などできない。優れたサッカーには、そのような残酷な知性が垣間見える。今回の決勝では、主に守備の場面でドキドキするようなプレーが頻出した。


試合自体は明らかにフランスが押していたが、押しているチームが点を取りきれないような時こそ、PKでその反動が出てくる。ポルトガルイングランドもそうだったように、内容で下回っていたイタリアはPKを征した。イタリアはトッティがまったく機能していなかったし、最も良い動きをしていたカモラネージは途中で下げられ、逆に途中から入ったデルピエロは何がやりたいのかまったく分からなかった。マテラッツィの与えたPKは微妙だったが、ここで先制されたイタリアはその後10分くらい恐ろしい勢いで走り回って無茶苦茶に早い攻撃を仕掛け、マテラッツィが同点とした後膠着し、後半は足が止まった。そこでマテラッツィが非常に意図的にジダンを挑発しいらだたせ、結果レッドを与えてフランスから精神的支柱を奪い、PKでトレセゲがバーにボールを当てて、ワールドカップはイタリアのものとなったのだ。


やはりワールドカップは「一番良いサッカー」を見る大会ではない。ただ、その残酷さは他では見られない。そしてその残酷さこそ、リアルなものの現れなのだと思う。そのリアルな感覚が僕をワールドカップに惹き付ける。日本のサッカーに欠けているのはこの残酷さ、というよりはその残酷さを引き受ける姿勢で、帰国した日本代表が何事もなかったかのように無視され、なんとなく「さあ次だ」と流されている。もっとも、ことさら「日本人の国民性」とか言う、抽象的でどこにあるのか分からないモノを叩くのも意味がない。オシムJリーグでの各チームでの基礎練習の重要性を説いている。これは僕が前に書いたエントリと重なっている。自慢でもなんでもなくて、今回のワールドカップからサッカーを見はじめたような人にも、日本代表の基礎力、ことに単純なスタミナの不足は明らかな筈だ。そして、それを鍛えるのは代表合宿ではなく各チームでの日々のトレーニングで、結果Jリーグでの準備が重要になってくる。


勝戦では、フランスもイタリアもバカみたいに走り回っていた。ボールを持てばただちに相手ゴールに突進し、そのシュートが外れれば全速力で自陣に駆け戻る。敵がボールを持っていればどこからでも足下に突っ込んでいく。日本代表はスタミナがないから走りきれず、スタミナがないから疲労でミスが増え、スタミナがないから残り時間を考えてボールを奪いにいけず、スタミナがないから自分でボールを運ばず横にパスを出す。これではワールドカップは戦えない。もう一つ、日本代表に足りないのは表現力だと思う。昨日のテレビでの中田のインタビューを見ていて思ったのだが、要するに中田を含めた日本代表には表現する力がなかったのだ。恐らく中田もそこは自覚的だった筈で、だからこそ黙って走り続ける、みたいな話しになってしまっていた。もちろんそれだけでは「表現」はできない。また、単にチーム内で議論するだけでも「表現」にはならない。必死にやろう、はいわかりました、みたいなやりとりでは、何も「表現」になっていない。


中田の分析は本当に的確で、チームに必要だったのは自らのポテンシャルを持続的に発揮し続ける能力だ、ということだった。彼によれば代表チームは良いゲームをすることもあるが、それが連続しない。集中力が不安定で、良い時は強剛とも互角にやるが、それが次の試合ではとたんにダメ、ということのくり返しだった。そして、その危機感を、中田は上手くチームに伝達できなかったし、チームもそれを受け取ることができなかった。これは、やはりスタミナと「表現」の問題だと言えるのではないだろうか?チーム内での意志伝達にも「表現力」が伴っていなかったし、フィールド上でもプレーに「表現力」が伴っていなかった。代表選手は、当たり前だが皆懸命だった筈で、ただそれが意志疎通のレベルでもプレーでも「表現」できていなかったのだと思う。


基礎的訓練と表現力、この二つが日本のサッカーのキーだ。98年に考えられていたのは、海外でプレーする選手が増えれば自動的に代表は強くなる、というイメージだった。そうではないことは今回はっきりした。どんなに海外に出て行っても、そこで得たものが代表で「表現」できなければいけないし、海外に出ていったところで基礎訓練の重要性は変わらない。そして、その、スタミナの欠如と「表現力」の低さが、リアルな残酷さをなんとなく回避することに繋がっているし、逆にリアルな残酷さに目をつぶることで「表現力」を取り逃がしている。「表現」という言葉の乱用は危険なのかもしれないが、しかし、それを考えることなしに、魅力あるサッカーを出現させることはできない。