直島・ベネッセアートサイト(1)

直島でベネッセアートサイトを見て来た。面白かった。この面白さはいくつかに分節して書かなければいけないと思う。具体的には、美術館+ホテルとその周辺の野外設置作品、本村の民家を利用した家プロジェクト、運営組織が異なる地中美術館という複数の要素が組み合わされているのがベネッセアートサイトで、僕は訪問に先立っていくつかエントリを書いたが、こういった事をよく把握せず考えていた。


美術的に最も良いと思ったのが、直島第2の美術館としてつくられた「地中美術館」で、3人の作家の作品を永続的に展示する。塩山の跡に埋め込まれた(つまり地上に構築物がほとんど姿をみせない)この建物は、個別の作品に対する理解と対話に基づいて作られている。その作品に即した姿勢というのは驚異的ですらある。ちょっとやりすぎではないかとまで思えるのがモネの睡蓮のシリーズを4点展示してあった空間で、僕はここまで完璧な絵画作品の展示というのは見たことがない。なんだか違和感を覚えた程だ。設置されていたのは正面(一番大きな壁面)に1915-26年制作の油彩画「睡蓮の池」(縦200cm×横300cmのキャンバスが2枚組)、向かって左手の壁には1917-19年(100cm×200cm)「睡蓮の池」、右手には1914-17年(200cm×200cm)の「睡蓮」、入り口開口部左に1916-19年「睡蓮-柳の反映」(100cm×200cm)だ。


ここでのモネは、純粋に視覚的にのみ感受されるよう細心の注意がはらわれている。作品は壁面に埋込まれキャンバスの厚みを感じさせない。キャンバスのへりは白い大理石のフレームで隠されるが、このフレームもゆるやかなふくらみをもち、強い段差を作らず存在感を押さえている。このことによって、キャンバスというオブジェクトの存在感が消去され、「画面」だけが浮上しているような効果を与えている。壁面は漆喰で、部屋の四隅を丸くすることで角を作らず、見るものの意識を分断させない。驚くべきは自然光の取り入れ方で、天井から入る光が一度宙に浮く天板でさえぎられ、それが四方の隙間から差し込むことで、いわば太陽の間接照明ともいうべき柔らかな光線が部屋全体を満たすことになる。そしてその光は、床に敷き詰められた2cm角の大理石によって、さらに柔和に拡散する。この粒子的に調整されふりまかれる光によって、なにか白く輝く霧の中に、こつぜんとモネの作品が出現したかのような感覚が与えられる。


展示空間の光のコントロールは、部屋自体に入る場所まで特別にあつらえる程に厳密に行われる。この前室には照明がなく、床は展示室と同じサイコロ状の大理石が敷かれている。廊下から内部に入る時に開かれる扉の手前には斜めについ立てのような壁が設置され、人の出入りによって生じる光線の変化の影響を最小限にとどめている。モネの展示室で変化があるのは日の出から日の入りまでの時刻や天候、季節などでうつろう太陽の輝きだけだが、それ自体も間接的に取り込むことで激しいコントラストを形成せず、平均的に均される。そして、そのように入り込む太陽光が作品を劣化させないよう加工されたガラスが作品を密封している*1


オランジュリー美術館のモネの部屋を十分研究した上で計画された(角の排除、作品の埋め込み、天井からの採光など)らしいこの空間は、展示空間自体が一つの解釈=批評となっている。モネの中にもあった筈の様々な夾雑物/矛盾を排除し、晩年のモネの理想を丁寧にすくいとって純粋化している。刻々と変化する自然光に照らされ、ゆらめく水面によって反射する睡蓮の池のもたらすある感覚が抽象化され、再現される。そういう意味では視界を覆うような、最も大きな1915-26年制作の油彩画「睡蓮の池」が、いちばん素晴らしく見えてしかるべきだと思うのだが、あまりにもパーフェクトに展示されてしまった為か、この横6メートルにも及ぶ大作は何か息苦しく感じられる。茫洋としながら濃密なタッチが画面をほぼ隙間なく埋め、重なり合う色彩は全体に明度が低い。画面中央右寄りにある(恐らく夕日に染まった水面だろう)“重いハイライト”が画面の「中心」を成すという構造が、少し単調に見えてくる。ストロークの長さにあまりバリエーションがなく、いわば色、すなわち絵の具が反射する光線だけが視野に充満してゆく感覚は、あまりに逃げ場がなく見るものを拘束してしまう。


この支配的な展示に対して、むしろそこから逸脱するような、いきいきとしたものを発散しているのは縦100cm×横200cmと比較的小形の、1917-19年制作の「睡蓮の池」だ。キャンバスの地も覗くフレッシュな白および黄色の面が画面中央をやや蛇行しながら走り、そこにぶつかる濃い緑、あるいは青が、平均化された光線を切り裂くようなコントラストを形成するこの作品は、タッチのベクトルが豊かで少々ラフでもあり、点在する赤や紫も同一平面上に「埋込まれることなく」ビビッドに見えてくる。キャンバス上で荒く混ざり合いながら、しかし混濁しすることなく鞣されないタッチが縦にも横にも斜めにも走り、モネの腕がぐんぐんと絵の具を載せてゆくフィジカルな力動がダイレクトに伝わってくる。絵の具はところどころで盛り上がりを見せ、キャンバスの地に対しくっきりとそのエッジを際立たせることで、ピュアな色彩だけに還元されきれない物質性を見せてゆく。


モネの純視覚的な性格は、セザンヌの「モネは単なる目に過ぎない。だがなんと素晴らしい目だろう」という言葉に集約されるように、モネの中核的な部分を成していることに間違いは無い。であれば、この展示空間およびその中心に有る横幅6メートルの大作「睡蓮の池」は、正しいあり方を示していることになる。だが、モネ及びその作品には、相互に矛盾し対立するようなものも多く含まれていて、このような「邪魔なもの」の豊かさこそが、モネを単純な存在にせず多様な視点を生成し、何度でも、あるいは色々な「場所」からでも見うる何事かにしている筈だ。この地中美術館のモネの部屋は、その誠実なモネ解釈と、精密な展示によって、移動可能なキャンバスに描かれた近代絵画としての「睡蓮」を、ほぼこの場所から移動させることのできない、サイト・スペシフィックなポスト近代的インスタレーションとして一分の隙もなく固定した*2。この達成それ自体は瞠目してしまうし、絵画というものに興味を持つものならば一見の価値のある展示だと言い切れる。


だが、モネは決してこのような展示だけに収斂されてしまうような画家ではない。おそらくモネは、自身の理想を裏切ってしまうほどにゆらぎがあるマスターなのだ。地中美術館のモネの部屋は、その極限まで厳格な展示によって、逆説的にそこからはみ出ていくモネを照射しえたという点において、賞賛されるべきだと思う。

*1:恐らく紫外線を反射するガラスなのだろうが、それ故か反射光がやや紫がかって見えたのが惜しまれる

*2:比較しようとすれば、昨年メゾン・エルメスで行われたスー・ドーホー展に近い。参考:id:eyck:20050323