直島・ベネッセアートサイト(3)

地中美術館はとても親密な気分にさせられる場所だと思う。この「親密さ」の原因は、僕が訪れた時がそれほど混雑していなかった*1、あるいは雨が降っていて、建物を含めた周辺の雰囲気がどこかひっそりした感じになっていたという偶発的な事情にもあるかなと思う。が、基本的には安藤忠雄氏の作った建築空間の質によるのではないか。地中美術館は全体として大規模というよりは中規模程度のスケールに納まっている。山に埋め込まれた建物は、いくつかの小さなボリュームによって構成されており、そしてそれが長い通路や階段で連結されているのが大きな特長だ。


まず、門から入り口まで、いきなり長い緩やかな上り坂を歩くことになる。コンクリートの板に開いた細長い開口部をくぐり、またしばらく歩くと最初の空間に出会う。その先には四角い中庭があり、トクサが植えられている。この中庭の周囲に沿って階段を登るのが通常のルートだが、雨天の時はエレベータを使うことになる。上階に上がるとそこには改めて長い通路がある。やや斜めに角度が付けられた壁、屋根がなく雨がそのまま振り込むこの通路は、雨天には用意されている傘を使って通ることになる。なんとここまで全てがエントリーで、ようやく美術館本体?に辿り着く。ここには三角形の中庭があり、その外周を回りこむように、またまた長い下り廊下を歩く。中庭を望む壁面には細長いスリットが入っている。


突き当たりを折れるとウォルター・デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノータイム」の部屋が現れる。狭さを感じるここまでの道のりを一気に解放するような、体育館のような大きさがあり、天井から外光が差し込むこの場所は、やや開きかけた瞳孔には(雨の日であっても)かなりの明るさを感じさせることになる。晴天なら眩しい程だろう。ここを出ると正面にタレルの「アフラム,ペール・ブルー」が輝いている。そちらに進めば四角い部屋の天井が切り取られた「オープン・スカイ」の空間が有り、2室に分かれた「オープン・フィールド」がある。反対側にはモネの部屋がある。先に書いたように、ここも前室がとられ、その奥に「睡蓮」が展示されている。モネの部屋のわきを通っていくと、大きく瀬戸内海に向かってガラスが張られたカフェがある。


地中美術館には外観というものがない。この結果、訪れた人は建物のフォルムからシンボル的イメージを持つ事がない。分節された個々の空間が、そのつど順番に口を明けていて、内部空間だけがそこを歩く人の感覚に刻まれることになる。個別の空間は、ウォルター・デ・マリアの作品を除けばどれも人間一人のサイズからかけはなれない、個人的スケールの範囲になっている。この事が、住宅建築で高い評価を得た安藤氏の特質を十分に感じさせる要因になっている。極端な事を言えば、周囲の住宅に“埋め込まれ”全体が見えず、細長い敷地を前と後に分け、間を天井のない渡り廊下で繋いだ「住吉の長家」を、いくつか連結したと言えるのが地中美術館かもしれない。


しかし、そのように安藤氏自身の指向を貫きながら、同時に個別の作品に即して、その作品に相応しい空間を組み上げていくという姿勢が、この美術館を観客と作品の、とても個人的な「出会いの場」としている。その突き詰め方は、例えばモネの部屋のように極限まで作りこむことによって、むしろ当初のコンセプトを逸脱してしまうような作品の余剰な部分を突出させてしまう所にまで達している。この美術館に思わず「感動」してしまうのは、ぎりぎりまで個々の作品のことを考えて作られ、余計なものが排除され作品が浮き上がっていくような在り方が、作品と観客を1対1の強い関係に結び付ける所にある。通常、美術作品というのは不特定多数に向けられて示されているが、この地中美術館では、なんだか不特定多数の人に向けられている筈の作品が、まるで自分だけに向かって示されているような感覚に陥る。僕が最初に言った「親密な感じ」というのは、作品と結ばれる関係の在り方が美術館そのものと深く結びついていて、しかもその関係が、個々に、個別に語りかけて来るようなものだということだ。


地中美術館の、この「特別な感じ」は、強い「限定」に根ざしている。3人の作家の特定の作品だけを設置しているこの美術館には、原理的に他の一切の作品が入り込む余地がない。いわばそれは個々の作品の住宅であって、観客はそこを訪れたゲストとなる。瀬戸内海の島に海を渡って訪れ、蛇行する山道を辿ってその突き当たった所にひっそりと埋め込まれた住宅は、地下へ入って行く感覚や、細長いスリット状の開口部に、ふと白井晟一松濤美術館を思い出しもするが、装飾性のないコンクリートの肌理の連続はやはり安藤氏独自のものなのだろう。長い通路-その存在感は、作品のある部屋と同じくらいのものだ-は、しかし、決して「歩かされている」感じがない。そういう意味では、東京都現代美術館の、うんざりするような「歩かされる」不毛な順路とは対極にある。そもそもこの美術館を他の美術館とくらべることが無意味かもしれない。やはり、ここは、教会/寺院でも、宮殿美術館でも、近代美術館でもない、作品の住宅なのだ。


この美術館にはもう一つ大切な事があって、それは、地下にありながら、というかその事によってより強く外部の気象が感じ取れることだ。照明が少なく、様々な場所から導かれる自然光はこの美術館のコンセプトそのものと結びついている。一度地下に潜り込みながら、しかしそこで改めて(天井や壁面のスリットを通して)降り注ぐ光は、地下の暗い館内(というよりやはり「室内」だろう)だからこそビビッドに感じられる。山の緑が濃密に見られる門から入り口までの坂道、雨の降り込む廊下、海に向かってここだけ大胆に開かれたカフェ、空が切り取られるタレルの「オープン・スカイ」と、いわば建築自体が直島の海と空と地面を呼吸している。そこに入り込んだ観客は、大袈裟に言えば地中美術館という気象圏の一部となって対流する。


美術館というものの「未来」が、この地中美術館によって示されているとは思えないし、美術家としても観客としても、このような美術館ばかりになったらと思うと、率直に言って息苦しい。あまりにコントロールされたこの場所に、僕はどうしても馴染みきれない何事かを感じる。しかし、そのような心配はする意味も必要もない。文句なしに地中美術館は唯一無二であって、このような美術館は容易に他で作られることがないだろう。

*1:ゴールデン・ウイークは大混雑だそうだ