直島・ベネッセアートサイト(4)

地中美術館に関して、僕は最初に「美術的に最も良い」と言っておきながら、思わず親密な気分に「させられる」と書いてしまったり、あるいは「息苦しさがある」と書いている。この理由について考えた。最初のエントリで僕は、モネの部屋の展示があまりに厳格であることを示したが、他に美術館の動線、すなわち「歩き方」がかなり制御されていることも大きな要素だと思う。


この美術館は長い通路が特長だと昨日書いたが、改めて言えばこの道のりは基本的に狭い道・坂・階段で、美術館の順路の半分くらいは最初から選択肢がない。ウォルター・デ・マリア、モネ、タレルの3作家のうち、ほとんど自動的にデ・マリアの作品が最初に見られる事になっていて、その後、モネを見るかタレルを見るかの二者択一があるのだが、タレルの3作品に関してはパンフレットにご丁寧に製作年代順に見ることが推奨されている。モネの展示室は特別に用意されている前室から、最も大きな1915-26年制作の「睡蓮の池」がドーンと開口部に重なって見えており、ここでも4作品中最初に見る作品は規定されている。


一般的な近代美術館にも、もちろん順路は設定されている。だが、ホワイト・キューブをパーティションで区切ったような会場は、いくらでもその順路を無視できる。壁面にずらっと並んだ絵画や彫刻は、ランダムアクセスすることの方がむしろ自然なのだ*1。例えば混雑する会場では、僕はざっと会場を見渡して、隙がある作品から適当に見て行くし、コレクション展のような、やや作品の質にバラツキがあるような展覧会なら、まず最初にざっくり終わりまで会場を流してみて、気になった作品を改めて見たりする。


少し違うのが、教会や寺院で拝観する美術品だが、ここでもランダムアクセスは可能だ。僕が覚えている範囲でリニアに見るしかなかったのは、アッシジの聖フランチェスコ聖堂の下堂とバチカンのサン・ピエトロ聖堂の地下、京都・圓徳院の長谷川等伯などで、ここは大勢の拝観者の流れに乗って順番に見る他はなかった。ピッティ宮パラティーナ美術館のような元宮殿も、混雑すればそれなりに流れに乗る他はないかもしれないが、実際はかなり建物内をいったり来たりできた。一室に所狭しとかけられている絵画は、たとえ部屋を順番に訪れたとしても各個に、ランダムに見られる他はないだろう。


地中美術館はすいている状態であっても、かなりの程度作品を見る順番が決められている。そして重要なのは、作品横にナンバーをふったりというような明示的「指示」ではなく、建物の構造と展示の一体化によって、“自然に”その順番で見るようにされている点だ。東浩紀大澤真幸の共著「自由を考える」で、緻密な管理がされながら、それが柔らかなサーフェイスに隠され、自然にあるいは自発的に人々が管理されていく状況を環境管理と呼んでいたが、地中美術館というのは、セキュリティとかではなく、作品鑑賞という根幹の部分に「環境管理」がある。


更にここではどこで、どのように建物外部の直島の魅力的自然を味わうかが確定されている。そしてその「体験」は、「ここ」で体に記憶させるしかないもので、例えば写真を撮ってそれを事後的に再体験したり、訪れていない第三者に間接的に伝えたりすることができない(写真撮影は作品だけでなく建物も含めて禁止されており、チケットセンターではカメラは預けることが求められている)。


考えてみれば、そもそもこの島を訪れてから地中美術館へ至る道のりが一本道だ。狭い島だから、ルートが2,3種類しかないのだが、自家用車や徒歩でこの島を巡る人を除いた、多くの観光客はバスで来る他はない。このバスは直島の表玄関である宮浦港からかなり迂回して地中美術館へ行く。利用者の多い本村を通ることが経済的に合理的だからだが、ならばやはり訪問者の多い地中美術館への直行便があってもいい。なにしろ宮浦港-地中美術館は地図上ではものすごく近く、本村経由だとすごく遠い。町営バスがこのルートなのは理解できるが、ベネッセハウス宿泊者専用バスまでもが、町営バスと同じルートを通るのは、ベネッセ・アートサイト側に、明らかに「このルートで地中美術館まで来て欲しい」という明確な意志がある事になる*2


合理性というなら、山手線のように宮浦港-本村-ベネッセハウス-地中美術館を巡る循環バスを双方向で走らせるのが一番だろう。ベネッセハウスにはチャーターボート専用の船着き場があるが、野外作品の多くがこの船着き場からベネッセハウスにいたるまでの過程にプランニングされている(というか、この船着き場を含めてトータルで設計されているのがベネッセハウスだ)から、これはこれで「特別な人専用」の動線になっている。


誤解を防ぎたいが、僕は地中美術館のこういった「管理」を批判しているのではない。明らかにしておきたいだけだ。地中美術館にはランダムに不特定多数の作品が置かれ入れ替えられ、それをランダムに不特定多数の観客が見る、という近代美術館の形態へのアンチテーゼがある。特定の作品の「住宅」を、海と山を超えてまで見に来る人々というのはその段階でかなりフィルタリングされる。高価な宿泊料金もこのフィルタリングの一翼を担うだろう*3。「作品の住宅」と、はっきりと意思をもって訪れる絞られた観客の間の、暗黙のルールによって節度が保たれた親密な関係。これ自体は確かに純度の高い経験となる。


凡百の公共事業的美術館より高い志をもった施設で、実際僕は直島を、可能なら再訪したいし、実際かなりのリピーターがいると感じられる。この美術館の魅力は、対象者を絞りながら、逆説的に広く承認されつつあると言っていいだろう。実際、これほど成功した「次世代美術館」が、世界的にどのくらいあるだろう。ショップで販売されている書籍を見ればわかるが、ベネッセ・アートサイトを紹介した本は多くが洋書で、しかも国内のものより洋書の方が遥かに出来がいいのだ。外国からの観光客も多いと聞く。実数などは知らないが、本当なら、日本で現代美術を扱った美術館としては希有なものだ。この点は強調しておくべきだろう。


しかし、その上でなお、僕はこのような“歩き方が定められた”美術館が「次世代美術館」の傾向を規定してほしくないと思う。美術作品の経験において、勝手に訪れ、勝手に歩き回り、勝手に自分で考えるというのは、最も重要な要素であって、これは確かに近代美術及び近代美術館が目指してきた態度だ。が、ということはそれは美術におけるモダニズムの、確実に踏まえられるべき部分になるのではないか。「近代」というものを検討・批判していくことはこの時代の必然的な仕事だろうと思う。同時に、僕は観念的なことでなく少なくとも今の美術館の現実的な問題点というのは、その「近代性」が、ことに日本においては徹底していなさすぎることにあると考える。


ここをクリアしなければnextはない。美術館は基本的には誰もがその社会的/経済的階層に関わらず来訪すべきだし(料金の無料化など)、可能なら365日、24時間解放されているべきだし、作品はより様々なものが流動的に展示されたほうがいい。これを「それなら今とだいたい同じだ」という人は現状を知らない。例えばパフォーマンスは特殊な場合を除き原則的にほぼ美術館から排除されているし、インスタレーションを行おうとすれば有形無形の制限があり、映像・音響設備は満足なものが少ない。開館時間は短く、東京に集積された展覧会は地方を排除し、無料の美術館などなく、教育という近代美術館の大きな柱が軽視されている。要するに美術館はモダニズム的思考を、それを突き抜けるまでに追う事で始めて「次世代」へステップを移せる筈だ。近代的“勝手さ”はいまだに、というか今だからこそ重要な理念たりえる筈だ。

*1:たまにやたらとパンフレットに記された番号を厳守する人もいるけど

*2:この「宿泊者専用バス」は、高額なベネッセハウスの宿泊料に含まれるサービスで、乗客は「管理されている」どころか、ちょっとした優越感を持って乗る筈だ

*3:ベネッセ・アートサイトは宿泊者でなくてももちろん見ることはできるが、同時にジャコメッティの彫刻やタレルの銅版画、岡崎乾二朗の絵画など、宿泊者でないと見る事のできない作品もけっこうある。