直島・ベネッセアートサイト(5)

家プロジェクトについて書く。直島の本村という集落の4件の建物(古い民家等)を利用したり新築したりして作られた一種のインスタレーションだ。ジェームズ・タレルが最もよかった。地中美術館と併せて考えると、ベネッセアートサイトの中軸はやはりタレルではないかと思う程だ。とりあえず訪れた順に書く。

  • 宮島達男は「角屋」と呼ばれる旧民家に3作品を設置している。家プロジェクトでは最初の1998年に作られている。目玉は戸が閉め切られた暗い部屋の床に水をはった中にLEDカウンターが多数沈められ、それぞれのリズムで数字が切り替わる「Sea of Tim'98」で、このリズムは住民が参加して決められたらしい。
    • 宮島氏のいつもの手だと言えばそれまでだが、単純にビジュアル的に美しい。こういうのはとても大事な事ではないか。ことにこの作品のように、直島というけして現代美術慣れしていたわけではない場所に、プロジェクトの先駆けとして作られた場合は、まずもって一般的に美しいという感覚がもたらされるというのは重要だと思う。古民家のつくり出す暗闇にひんやりと水の気配が漂い、空気に土間の土の臭いが混ざる空間は、ふといつかどこかでの記憶につながりだしそうな予感がある。外国、ことに欧米からの訪問者にとっては、良くも悪くもオリエンタルでエキゾチックな魅力を持つ作品だろう。
  • 「きんざ」は内藤礼によって2001年に作られたもので、「このことを」を題された作品が納められている。やはり住人のいなくなった古民家を利用している。事前に予約し、必ず内部に1度に一人きりで入らなければならない。時間はちょうど15分と定められている。茶室の入り口、という程ではないが、ややそれに近い、低く設置された入り口から入ると、指定された所に座ることになる。暗さに目がなれてくると、床を撤去された一面の土間に、いくつかのモノが置かれているのがわかってくる。しかしそれぞれの意味は特に明示されていない。
    • 暗い空間に置かれた意味ありげなものを前に一人きりでいると、何もない時間に勝手に何事かを読み取りたくなる人の心理を利用しているが、こういう「意味ありげ」なムードの演出をアートだと言われても、少々対応に困る。「このことを」というタイトル、つまり文章を途中で切って、その後に繋がる言葉=意味を観客に補充させようとする所にこの作品は集約されていて、なんというかコンセプト落ちというか、タイトルだけでいいじゃん、という気になる。
  • 「南寺」はジェームズ・タレルの1999年の作品が設置されていて、この木造の建物は安藤忠雄が設計している。作品は「Backside of the Moon」と題されている。入り口で説明を受けた後、係員の人に先導されて入場するとそこは完全に光の無い真っ暗やみで、軽く恐怖心を覚える。ほとんど手をひかれるようにして椅子に座り、一人にされる(というか、他に人がいるかどうかがまったく分からない)。かなりの長時間、そこに座っていると…と、作品の記述はあえてここで終えるが、タレルらしい、洗練された作品だと思う。
    • 宮島達男や内藤礼の作品が、「暗さ」に大なり小なり「意味」を付与させ「雰囲気づくり」に利用していることにくらべると、暗いという面では遥かに徹底しているタレルは、あくまで知覚そのものを主題にしている点がいいと思う。この作品にはオリエンタリズムが介入する隙がない。とにかく瞳孔が開き切るのにこれ程時間がかかるとは思わなかった(これは個人差がかなりあって、僕はもしかしたら人より暗闇に対応するのが遅いのかもしれない)。技術的にもこんなに微細なものを完成度高く見せているのは流石だとおもう。派手なコントラストをつける作品のほうが容易な筈だ。
  • 杉本博司の「護王神社」は既存の神社を改築して作られたものらしいが、僕は時間が足りなく体験することができなかった。外観は時間に関係なく拝殿することができた。一応知りえた構造を書くと、地上に設置された神殿から特殊樹脂製の階段が地下にまで伸びており、この地下に入ると階段をつたってもたらされた光が地下室で輝いて見える、というものらしい。
    • 現地に至る道のりは、やや険しい坂道だ。途中は雨にしっとりと濡れた森で、多分最近の豪雨で折れたらしい大木などもあり、かなり“霊気”っぽい雰囲気を肌で感じる。地元の信仰の対象だった神社をこのように現代美術として改築したというのは、どちらかというと宮島の人々の思いきりが素晴らしい、ということになるのかもしれないが、地上のややキッチュな感じの社殿はともかく、中の光は体感してみたいと思った。残念だった。


見事に4つとも暗闇の中の光、というものを扱った作品で、地中美術館と併せて「光」を直島でいかに見せるかがベネッセ・アートサイトの背骨をなしているかのような気になる(ベネッセハウスのコレクションや野外作品では、その傾向はなくなるが)。家プロジェクト全体で最も印象に残るのは、チケット売り場になっているタバコ屋のおじさんとのやりとりや、各作品の係員をしている地元の人らしい方々とのやりとりで、ここで直島という集落の、ベネッセ・アートサイトとの「付き合い方」というか「距離感」みたいなものが押しはかれる。全体に「あーはいはい、お客さんいらっしゃい」という感じで、独特のイントネーションのある言葉はどこか丸みがあって豊かな感じなのだが、慣れているらしいテキパキした所もあって、親しみやすさとクールさが同居しているような感触だ。「南寺」に辿り着いたときには規定時間の4時30分を6分ほど過ぎていたのだが、係りの人は「まあいいでしょ」、とあっさり通してくれて、こんなの東京じゃあんまりないなぁ、とも思った。


たぶん最初にこの島に「現代美術」が来たときは、かなり異質というか「なんだそりゃ」という気分があったのではないかと思う。こういうのは東京都心ならともかく、僕の住む埼玉ですらある感覚なので、当然だろう。しかし、時間をかけてベネッセ・アートサイトが(「角屋」に見られるように)住民の人々とコミュニケーションを重ねてきたことと、観光ビジネスとしてそれなりに成果を上げてきたことが、どことなく宮島の人々の“アートな客”への肯定的な印象(むろん、僕が接したのは極めて限定的な人数でしかないが)を形成してきたんだと思う。特に観光商品としてベネッセ・アートサイトが一定の成果をおさめているらしい事は、家プロジェクトのために本村をあちこち歩き回っていると感じられる。若い人向けの、お洒落なカフェやソフトクリーム売り場なんかが点在しているし、次のプロジェクトのために工事が行われていて(「きんざ」のとなり)、ああ仕事が発生してお金が落ちていくんだなぁ、というのが実感できる。


経済的に上手くいっているというのは、何も悪いことではなくポジティブな事だろう。直島は穏やかな海に囲まれていて魅力的な所だったが、やはり僕のような人間はベネッセ・アートサイトがなければ、ここを訪れることはなかった。家プロジェクトの意義はそういう人間に足を運ばせることで、個別の作品うんぬんという事よりも、そういう機縁の成り立ちが眼目だろう。こういった試みは案外あちこちで行われているが、直島はその中でもかなり成功している例ではないか。