ゆーじん画廊で岡崎乾二郎展を見た。この展覧会を見たのは金曜日の夕方で、面白かったので帰宅中はすぐにでも文章を書こうと思ったのだが、実際に家についてみると、どうも文章を打つ気にならなくて、そのうち製作を始めてしまい文章のほうは今まで放っておいた。僕は原則的に週末はblogにtxtをアップしないので、どのみちエントリするのは月曜日なのだが、もしかすると「それまでに書けばいい」という気分があったかもしれない。同時に「なんだか文章を打つ気にならなかった」のは、今回の展覧会の、岡崎氏の作品の性質によるものかもしれないとも思った。


この「岡崎氏の作品の性質」というのは別に難しいことではなくて、要するに岡崎氏の作品が、何かを「論じさせる」ようなものと言うよりは、見た人に「とにかく描けば」と言っているかのような、独特の誘惑を持っているように思えるということだ。僕は今特に現実的な発表予定はないけれど、そんなこととは関係なく普通に絵を描いている。が、そうはいってもやっぱり具体的な目的地がないというのは本当に「関係がない」わけではない。逆の影響はあって、どことなく宛先のない手紙を描いているような気分になる。そんな僕の(個人的)気分に対して、今回の岡崎氏の作品は「絵画に対して論理的に記述してみる」みたいなベクトルよりは「描くことで考えていけば?」というような“姿勢”を、改めて示しているかのように思えたのだ。


今回の岡崎氏の作品は、例えば昨年の南天子画廊の個展の時より「ほどけて」いる。完成度みたいなものは昨年の作品の方が高いと思うのだけど、そのぶんこの作家は「完成度」みたいな事とは関係なく作品を描いてる*1のだということがダイレクトに伝わってくる印象で、当たり前だが岡崎氏は、考えたことを描くことより以上に、描くことで考えているのだ。そういう、描く思考、みたいなものが「作品」としてどうこうということより強く溢れているのが今回の作品で、具体的に言えば比較的小型の作品が多く、その「組み合わせ」「並べ方」も感覚的な感じで、ちょっと置いてみました、みたいな気楽さがあった。


かといって、どれもいわゆる小品のための小品*2、ということでもなく、正確には大きいとも小さいともいえないような作品が中心で、こういう所にも「がっちり発表するから大作」とか「気楽な展示だから小品で」みたいなことではなくて、言ってみれば「このくらいの木わくやキャンバスがあったからまず描いちゃう」みたいな、とにかく描いてるんだ、的な雰囲気なのだ。事実経過は知らないから、実際はきちんとこの大きさを選択しているのかもしれないが、そういうふうに見えてしまう性格がこの展覧会の作品にはある。


では個別の作品が、描く事の快楽に溺れているのかといえばそんなことはなくて、以前僕が書いたような、キャンバスから絵の具が分離しているような(参考:id:eyck:20050314)とてもクリアな「分節」が、相変わらずある。「とても楽しそう」ではあるのだがそれが岡崎氏一人の勝手な楽しさではなく、見る人に開かれているかのような楽しさで、こういう楽しさ、つまり描くことの喜びが、たんなる画家の発散で終わらず、しかも、観客の目を喜ばせるというような、展示・発表に従属したサービスとも違う、「描く喜びが開示されている」(我ながら適切な言い方でないけど)感覚というのは、結果的に「あなたも絵を描いてみませんか」というような、招待状みたいに機能してゆくように思える。たしかにこういう誘惑は、僕が絵を描くからより強く感じるのかもと思うが、しかし部屋の角にこっそり展示された段ボールへの「落書き」をくり貫いたようなものなどは、とくに普段絵を描く人でなくてもつい「家に帰ったらなんかしてみようか」という気分にさせられるのではないか。


もしかしたら岡崎氏の喜びというのは、「描く」というよりは「つくる」に近いかも知れない。作品が空間的で、それはもちろん(台座のように)厚さを増されたキャンバスや、そのキャンバスに「染み込まず」厚く盛られた絵の具や、混濁ぜずにビビッドにバルールをバラバラにされている色彩などの効果による。ほとんどカルダーのモビールのように宙に色のピースが浮いているようにみえながら、しかしなおそれはキャンバスに置かれた絵の具であるという、感覚の乖離が、ちょっと“画家”からは出てこないような気がした。先日訪れた直島アートサイトのバーには岡崎氏の絵画が飾ってあって、それは大きめのものが、かなり高い位置に設置されていたのだが、この時はその高さ・大きさから作品への距離が詰められず、どうしても眺めるような感じになった。今回の展示では、そんなに広くない会場に、持てそうなサイズの作品が、ほんとうに触れるようにあったものだから、思わず手に取ってみたくなる感じがあって、こういう感触も、「持ち運びたい」と思わせる「空間的感覚」をもたらす要因になっていると思う。


なんだか主観的印象ばかり書いているけれども、今行われている岡崎乾二郎展は、どこか美術に携わるものに勇気を与えてくれるような展覧会だとおもう。一点だけ、タッチがおおぶりではなく細いドリッピングみたいな作品があって異色なのだが、画廊の方がお客さんに話していた内容によると*3、これは10数年前に制作されはじめた作品で、どうしても仕上がらずアトリエに置いてあったものが、今回手を入れて完成、ということになったらしい。人の話の、しかも「耳にはいってしまった」だけの話しだから、僕が何か聞き間違えているかもしれないが、それにしても、このような挿話も絵を描く人間に、なんとなく希望をもたらすものだと思う。けして「今」「ここで」すぐに成果=効果が発揮できなかったり確認できなかったりしても、持続的に思考を続けていけば、それは10年以上後に、ふと実を結ぶかもしれないのだ。


もちろん、10年20年と、制作と思考を持続していくことの方が「今」「ここで」成果を出すより、ずっと難しいことでもあるのだけど、それにしても、この、あるときストップした思考が、ずっとアトリエの隅にうずくまっていることが頭のどこかに確かに残っていて、延々迂回してきた仕事によって、それがあるとき、すっとほぐれるように着地させられる、というのは、長く制作を続けてきた作家だけにもたらされる何事かなのではないだろうか。岡崎乾二郎という人が、ごく実直に、日々制作を積み重ねているひとなのだという、当たり前の事実は、僕にはやっぱり元気が出て来ることのように思えた。


岡崎乾二郎

*1:むろん、こう思うのは、キチッとした昨年の個展があったからこそなのだが

*2:有名な画家には、こういう「小品」の制作が求められたりするらしい

*3:このお客さんが、なんと早見尭氏だった