直島・ベネッセアートサイト(7)

ベネッセアートサイトの屋外作品を見ていると、2000年に見て回った越後妻有トリエンナーレでの野外作品を思い出す。野外の作品の場合、そこに置かれるオブジェクトが図であるなら、背景というか、場所が地になるわけだが、これが直島のような、バックに「海」が来ることの多い所と、越後妻有のような「山」が来るところでは、ちょっと感覚が違う。


例えば越後妻有の松代で見られた、イリヤ・カバコフの作品「棚田」は、はっきりと山を基底材として使用していた。駅から降り立つと川を挟んだ対岸に、真夏の濃密な緑に覆われた山の斜面が立ち上がり、その途中途中の棚田にぽつぽつと、農作業をする人の形を切り取った鮮やかな色彩の立体作品が見える。やや離れたところにある展望台に立つと、四角い金属の枠を通してその風景が切り取られ、しかもそこに枠から釣り下げられた文字(詩)と重ねられて見えるというものだった。正確にはこの作品は、山間に埋もれるようにいる小さな、実際の農作業をしている生身の人々を彫刻と金属の枠によって意識の上で拡大してゆくようなものだったと記憶しているが、いずれにせよ「山の光景を四角く切り取る」ということをとてもわかりやすく実行していた。


このような意識的な作品でなくても、越後妻有の様々な場所に立つ作品は、多くが背景に山や斜面、森などが見えそれが基底として機能していたように思う。山あいの作品などは、取り囲むような木々の連なりが空間をある限定的なボリュームに分割していて、そこにぬっと何かの徴候のように作品がある。また、作品に辿り着くまで、かなりの長い距離を歩く中で、入り組んだ山が視界を覆い本当に作品の前に行くまでその姿が見えず、途中でぽっかりと開いた空間に、オリエンテーリングでのポストのように作品があることもあった。こういった場合山や木々、大地というのはとても物理的な地であって、野外ではあってもどこか区切られた場に、しっかりとした基底「材」があって、それがなんとなく作品を求心的に見せていたような印象がある。


もちろんボルタンスキーの「リネン」のように、開けた場所にだーっとシャツを並べるような作品では山並は遠くに後退し、青い空と比較的広い大地に、限定的なフレームなしで見えるものもあった。しかしそういうものであっても、作品にアクセスするまでの心持ちというのは作品の受容になにかしら影響を与えていたと思う。鉄道で関東平野から上越方面へ向かうと、大宮くらいまではそれなりに密集した住宅地や商業地で、風景はむしろビルなどによって微分されているのだが、そこを過ぎると一気に田園風景が広がり、急に視界を分割するものがなくなる。それが高崎あたりになると山並が目に入り、越後湯沢までくると、かなり山のある場所に来た気分になる。平野は遠ざかり、具体的な峰々が視界を区切りはじめる。そこからローカル線で中里まで乗っていけば、現実的にも感覚的にも、山で囲われた所にいることになる。こういう心理がまず意識に見えざる「フレーム」を形成しているのではないだろうか。そして、そこに丘陵の土の茶色や植物(木、雑草であったり田園、畑だったり)の鮮やかな緑が視線を受け止めていく。


対してベネッセアートサイトの屋外作品は、もう文句なく無限定の空と海に向かって、その見え方が、風景の中へ拡散していくかのようなのだ。瀬戸内海は文字通り内海だが、それでも岡山空港から来ると、内陸の丘陵地帯から沿岸の平野へと地勢が変化し、それが穏やかな海へとなって直島がある。直島も山がちだが、その斜面に、改めて海に向かって空間を開いているのがベネッセハウスで、屋外作品はベネッセハウスから海岸にいたるまでの場所に、こぼれるようにしてある。その見え方も心理感覚も、どうしても開けた海・空を背景としてゆく。


こういう状況は(作品を基点に)海や空を感じる爽快感みたいなものを取り除いてみるならば、条件としてはやや不利になるのかなと思う。空や海というのは、山間のような「囲われている」感じをほとんど発生させず、その物理的抵抗感も極小にまで縮減していて、ほぼフレームや地というのを成り立たせない。こういう所に作品をぽつりと置くと、なんというか、ちょっと所在ないというか、立体作品の回りを巡っても、それが作品的に見える前に「海」とか「空」の広さに気持ちが吸収されていく感じになると思う。僕のような、作品がなければそもそもここを訪れないような人間に「直島の海と空」を体感させるための契機なのだからそれでいいのだ、というのは、やっぱり作品・作家としては逃げっぽくなってしまうだろう。


作家達はそれなりに工夫している。大竹伸朗の「シップヤード・ワークス 船尾と穴」は、船の船尾を切り落とし、それを砂浜に立てたような四角い立体に、大小様々に穴を開けた作品で、この作品は遠くから見るというよりはぎりぎりまで近付いて、その穴越しに海や空や浜辺を「覗く」時に面白みが出る。いわば、この穴が視界を規定するフレームになっていくのだ。片瀬和夫の「茶のめ」は、桟橋方面にせり上がった岩場の上に大きな「茶碗」を置き、やってきた船に向かって歓迎の意を示すが、ここでは岩場を碗を差し出す手に見立て、やってくる客との関係を想起させることで、儀式という意識の上でのフレーム、というよりはシークエンスを想像的に呼び出すようになっている(つまり、作品それ自体というよりは、そこで形成された儀式と意味を読むことが主眼になる)。


ウオルター・デ・マリアなどは、あからさまに空や海と正面対決することを避けて、岸辺に作られたステージの下部を四角くくり抜いた中に、半ギャラリーのようにして作品を設置している。これはこれで、正直な戦術ではあるだろう。草間彌生の「南瓜」は、なんの作意もなく、桟橋にそのまんま「南瓜」をぼてん、と置いていて、かなりの大きさのオブジェクトの筈なのに、どしらかといえば不安が発生するような頼り無く孤独な感じがしてしまうのだが、これが台風などで沖合いに流されたり岡山方面まで行ってしまったりしながら、その都度「発見」されて回収された、なんて話しを聞くと、巧まざる(まさか狙ってないだろう)ユーモアというかおかしみというか図太さみたいなものが発生していく。新設された宿泊棟の緑地に置かれたニキの作品などは、本当に素で置かれていてちょっともったいないというか、公園の遊具っぽく(よすうるに安っぽく)見えてしまっている。