終わってしまったが、東京国立博物館で「プライスコレクション/伊藤若冲と江戸絵画」を見て来た。伊藤若冲を目当てに行くと、三の丸尚蔵館での「動植綵絵」の展観に比べてやや散漫な印象を持ってしまう。こういう言い方はたぶん不当だろう。「動植綵絵」は伊藤若冲の中でも最も充実した作品群で、画家の最高打点を凝縮したようなシリーズを、三の丸尚蔵館のようなこじんまりした場所で、5回に分けて展示したらいやでも展覧会としての緊張感は強まってしまうし、プライスコレクションはあくまで個人コレクターの収蔵品なわけで、これは会場が反対になってしかるべきだ。「動植綵絵」は国立博物館で、釈迦三尊像とあわせて一気に展示されるべきだったし、プライスコレクションは作品を厳選した上で、三の丸尚蔵館(というわけにはいかないだろうが、そのようなしっかりした空間と設備がありながらもこじんまりした会場で)で数回に分割して展示して、もっと親密な感じで接することができればより良く見えたと思う。


プライス氏は、僕にくらべれば凄いお金持ちなのだろうと思うが、それでも近世の国王のコレクションとか、MOMAのロックフェラー婦人のコレクションみたいに、圧倒的な(国家的規模といえるような)資金力を持った人が物量作戦である範囲を爆撃してしまうようなコレクターではないように思う。あくまで個人の趣味の範疇で、こつこつと市場に出回った作品を1点づつ買い集め、自らの喜びの為に収集していった、その蓄積が、美術史的カテゴリーや求心的コンセプトとかとは関係がない、プライス氏の「好み」を濃厚に感じさせる「個人コレクション」としてなりたたせている。そのような、プライベートな感覚がより重視されれば、この企画はもっと良い展覧会になったのではないだろうか。


国立博物館の平成館のような大会場というよりは、極端な話し大きな住宅の居間のような場所で、椅子にでも座ってじっくり見ることができたら良かったな、というのが正直な感想で、そんな事をしたら10万人もの人が貴重な作品を見るという機会はなくなってしまっただろうし、やり方によっては現状でさえ酷い混雑が収拾不可能になってしまうのだろうけれども、なまじ“大イベント”としてプロデュースしてしまったが故に、このコレクションの魅力の最も重要な所が消えてしまったように思う。こういう「イベント化」に、美術館や博物館が独立行政法人になってしまった事のネガティブな面が露出している。結局国立博物館といえども、観客を動員できるときには作品やコレクションの質を度外視しても動員してしまえ、という考えをしているのだということが露骨に表に出ていて、なんだか国立近代美術館の「RIMPA展」とかを思い出してしまった。


そうは言っても、個別の作品で面白いものはあくまで面白い。例えば紫陽花双鶏図なんかは、はっきりと「動植綵絵」を想起させるもので、その画面強度も若冲の中で相当な高さにあると思う。鶏の羽の描きや紫陽花の描写が、観客の視点を部分部分へ導いては分岐させてゆくような性質は若冲らしさが溢れている。「動植綵絵」では、あくまで釈迦三尊像を中心に30点が取り巻くという構造から、個々の作品はそれ単独の「絵らしさ」を備えるという条件から自由で、だからこそぬけが一切ないような「棕櫚雄鶏図」「雪中鴛鴦図」のような作品が可能になったし、かと思えば一気に画面がメルトダウンしてしまったかのような「菊花流水図」もありえた(参考:id:eyck:20060515)。が、「奇妙な画家」といわれがちな若冲が、充分計算の行き届いた戦略的な画家だったのがわかるのが紫陽花双鶏図で、こちらはあくまで単一の作品として、画面向かって右下に集中する鶏の緊密な描写が、左上の地の余白とバランスをとって過剰になりすぎることなく納まっている。


唐突かもしれないが、僕は先日見たホテルオークラの「花鳥風月」展を思い出した。ここにも若冲の作品があったのだ。面白いと思ったのは葛飾北斎との対比で、浮世絵の絵師として傑出した力を持ちながら肉筆画では凡庸な作品しか残していない北斎に対して、若冲は版木を使った拓本画などを残しているが、これは技法の珍しさを除けば見る所のない作品だった。若冲はどこまで行っても肉筆画の人だったわけで、江戸/京都といった文化的・経済的環境差が原因なのだろうか(江戸=町人文化=複製絵画/京都=寺社・商人文化=肉筆画?)。


長沢芦雪円山応挙の弟子のなかでも特異な人に見えた。厳密に言えば、その作品は応挙の影響から脱して独自のものになっていると思う。さらに言ってしまえば、他の応挙の弟子の多くが悪しきマニエリズムに陥っていて、動物の毛の表現などにこだわり妙な気持ち悪さを示している。そして、そのような弟子が育ってしまう要素が、応挙の「手管優先」な所に現れているような気がした。芦雪はそのような、いわば師の呪縛から解き放たれていて、良くも悪くも好き勝手に描いている。「猛虎図」の、わけのわからない変なフォルムをしたトラや(妙に人っぽくて「エバンゲリオン」かと思った)、「軍鶏図」の首の長い鶏など(こちらはやはりオークラホテルで見た竹内栖鳳「蹴合」を思い出した)の奇妙なフォルムの感覚が印象的だったが、なんといってもインパクトがあったのが白象黒牛図屏風で、巨大な象や牛の背中や腹部に、ちょこんと鳥や犬が描かれている様子が「勝手な包容力」みたいなものを示している。


つまりここでは、巨大な象や牛が、小さな犬や鳥を「守っている」のでも「愛情で拘束している」のでもなく、自らの力によって「自信を持ってぼーっと寝そべっている」象や牛の所に、いわば他人の軒下で勝手に雨宿りするかのように小さな動物達が集まって来て、それぞれが象や他の動物の視線を気にする事なく「勝手に」各自でぼーっとしている。それが全体で長閑な空気をかもし出しているのだが、子細に見ればこの長閑な感じは、象や牛や鳥や犬で、それぞれまったく違う「長閑さ」で、彼等は決して同じ長閑さを共有しているわけではない。象や牛は、誰の意を組む事なく、自分がそうしたいから勝手にぼーっとしているだけだし、犬や鳥は、別に卑屈になることなく、偶然そこに大きな木があったからそこでひと休みするかのように「勝手に」人心地ついている。象や牛は、たぶんそのような犬や鳥がいることに気付いているが、これといって困らないので放っておいているような感じなのだ。


このような、各自の勝手な「ぼーっとした感じ」が、思わずふと連合してしまった刹那を顕現させているのが長沢芦雪の白象黒牛図屏風で、このような鮮やかな瞬間の切り取りが、単に「癒される」ような癒着した感じではなくかすかに緊張感を漂わせているのは、象や牛は、いずれ自分の都合でノソリとおきだして、この「連合関係」を壊してしまうかもしれないし、犬や鳥も、すらっとどこかへ行ってしまうかもしれない。そのくらいバラバラの時間を生きている各要素の危うさが、主に動物達の交叉しない視線に示されているからで、こんな作品こそ、どこかの居室にあるものを椅子に座って時間をかけて見たかったと思った。他にも酒井抱一や曽我蕭白などが展示されていたが、いかんせん混雑していて、十全に見れたとは言い難い。