今年に入ってから筆で作品を描き初めてびっくりしたことがある。筆という道具がとても奇妙なモノである事に気付いたのだ。まず最初に感じたのは恐ろしく高機能だということで、この筆という道具を使いこなすのはそうとうにハードルが高い。実は去年、おっかなびっくり筆を使ってみたのだが全然だめで、結果去年の個展では銅版画をやっていたときに使ったゴムべらや、少し前にやっていた手で描くというのを中心にし、そこに100円ショップで売っているケーキサーバー(ペインティングナイフに似ている)や金ブラシ、果ては菜ばしやら何やらを手当りしだいに突っ込んで、そこにこっそりへたくそな筆のタッチも混ぜこんで製作した。


そんなわけで今年はその復讐戦で改めて筆を使ってみたのだけれど、とにかく筆というのは確実に「筆的メソッド」を強要するというか、恐ろしく制度的なタッチを生産する。このタッチが最初とても「視覚的」に見えたのだが、最近になってやや違う角度から考え始めた。自分が手や指で描くことをある程度やっていたから余計にそう感じるのかもしれないが、要は筆というのは“タッチ”を画家の身体から一度切り離して抽象化し=タッチをある種の直接性から解放して自立的に扱うのだと思う。この自立性こそ筆というシステムから発生しているわけで、「絵を描く」ということの、最も中核的なある要素がここにはあるのだろう。僕は以前クレヨンについて書いたエントリで「水彩というのは難しい」と書いたが(参考:id:eyck:20040517)この時は水彩という技法の難しさを主に「絵の具」にあるとしていた。しかし、今考えてみれば、それは、筆のコントロールにこそ要因があるような気がする。


ではひるがえって考えて、手で描くことが、いわば「描き」と自己との、媒介なき直接性を実現するのかといえば決してそうではない。手で描くというのは、筆を使えば得られる、描きと自己の分節の明確化を放棄することにはなるが、それはつまり、どこまでがどう自己で、どこから先がそうでないのかという境界線が消え失せ見えなくなってしまい、ひたすらな混沌に突入することに他ならない。このことを誤解すると、急に作品は作品として自立できず、単なる画家のナルシス的身体性幻想のだだ漏れになった、下品でだらしない「汚物」になってしまう。ここで現れる混乱とは、手や身体で直接のこした「痕跡」を、いわば画家の身体の延長のように捉えてしまう「身体性幻想」とは逆の事態で*1、それまで自明だった筈の、自分の一部であった指や手や腕が、徐々に自分から切り離されていくような感覚にある。


この自分の腕の長さや、この体の柔軟性や、筋力などといった諸要素が次々と立ち現れては、それがどんどんと「自己」から「道具としての腕・手・身体」として離れていってしまい、最終的には自己はとても小さく縮減していってしまう。ここで「絵」を「絵」として成り立たせようとする判断は、結局目による決断に集約されていって、この目が、手や腕や身体を道具としてコントロールしようとする。だから、筆などを使わず「作品」を成り立たせようとした時、その「絵」は恐ろしく視覚的なものとして立ち上がっていく可能性がある。手や身体を使えば自動的に絵が「触覚的」になったりするというのはただの思い込みで、むしろ判断のレベルで複数の諸知覚というものを動員すれば、何を使おうがその絵は触覚や味覚や嗅覚を内包してゆくだろう。


目による判断をしない、ということをしたのがトゥオンブリの、暗闇の中のデッサンで、ここで視覚を放棄したトゥオンブリを駆動したのは「紙の上を鉛筆が走っていく感覚」なのではないかと想像する。ここでトゥオンブリは、作品とか絵画とかいう観念自体を視覚と一体にして放棄していて、現れたのは、確かに目で見る「作品」でありながら、実際に感覚できるのは「基底材の表面を摩擦をもちつつ滑る鉛筆やチョークの感覚」だという状況だ。逆に手で描きながら、そこにほとんど「身体性」のようなものを持ち込まず、あくまでイメージの純化の実現だけに特化していたのが恐らく一時期の小林正人氏で、最良の小林氏の作品(これはとても狭い時期にだけ集中して現れるが)においては、手で描くという行為が一度身体性を切り離した上でイメージの定着にのみ奉仕することで、逆説的に人肌を鞣したような触覚性が抽象的に現れていたように思う*2


いずれにせよ僕は今、筆で描く作品と、手で描く作品を平行して進めているのだけど、そこで問題になっているのは「いかに絵に触れるか」ということで、人によってはバカみたいに単純で基礎的なことだと言われそうなことに、えんえんと拘泥している。僕はいくつかの「触れ方」をここ数年で試行錯誤しているのだけど、もしかしたら最初の一歩、と考えていたその試行には、終わりがないのかもしれないと思うと恐くなる。

*1:国立近代美術館で見られた「痕跡展」での具体美術協会の作品などは、こういった「身体性幻想」のあからさまな露呈だったと思う

*2:そういう意味では、今行われている初期作品の展示では、そういった強度がほとんど感じられない