森アーツセンターギャラリーで開催中のクリーブランド美術館展で見ることのできたセザンヌ「小川」について。1895-1900年頃、キャンバスに油彩で描かれている。縦59.2cm×横81cmの大きさがある。


何故この絵が目にとまるのだろう。まず第一に、それがあのセザンヌの絵であると、一目でわかるからだ。セザンヌという固有名詞は、ほとんどどうしようもなく美術と言う領域において重要な位置を持っている。ではなぜこの絵がセザンヌだと分かるのだろう。なによりもあの、幅が狭いにも関わらずタッチが個別に独立していて、なおかつそれが緻密にある連合をなして一つの画面を成してゆく感覚が、セザンヌ以外にあり得ないからだ。しかしなお問いが残る。なぜ、僕は過去何度も見てきたセザンヌに対して、改めてこのように文字を打とうと思うのだろう。それは、この「小川」という作品が、しかしやはり新たに、過去見たセザンヌの作品と明らかな繋がりをみせながら、なお初めて出会ってしまったような新鮮な何事かを意識に「ひっかけて」来るからだ、と思う。


「小川」は空間構成に関しては明解と思える。まず画面下半分には水平なタッチで川の水面が描かれる。キャンバス向かって左下から画面中央に向かって、緑、褐色、明るいベージュが細長く真横に連なりながら積層され、川面を成す。画面下辺付近は縦、右斜、左斜のタッチによって最前景となる地面となる。画面向かって右下すみから褐色のタッチがキャンバス右辺を這い上がるようにたちのぼり樹木と感知される。これは画面上1/3程度のところで細かく分岐して、そこから画面上辺中央に向かって左上へ伸び上がってゆく。画面向かって左下からは、画面外から侵入してきたような濃い茶色が、やはり木の枝としてそのまま右上へ貫通してゆき、右から分岐してきた枝と画面上辺中央で接して、全体で極めてセザンヌ的な三角形の構図を描く。


川面の水平のタッチと向かって右の枝に挟まれたエリアはほぼ垂直のタッチで、緑と明るいベージュが置かれ、川面とぶつかるまぎわでだけ斜のタッチとなる。画面向かって左の枝の周囲は、右上にのびる枝と直交するような右下への緑のタッチが多くを占め、ことに画面左上の、枝によって三角形に切り取られた面は枝を埋め込んでしまいそうなボリュームをみせる。右上の、細かく分岐した細い枝はその枝と枝の隙間を埋めるやや明るい緑によってほとんんど蒸発しそうになりながら途切れ途切れの線となり、葉を示すタッチと枝のタッチがほぼ等価になりながら右上の三角形の面を埋めてゆく。空はない。かろうじて画面右上の枝の隙間に置かれた、ややくすんだ緑がかすかに葉にすける空間を予感させるが、しかしその位置は明らかに枝の前にあって明瞭な抜ける空とはなっていかない。


この、葉と枝と水面で覆われ、安定した三角型の構図を持った絵が閉塞せず息苦しくならないのは、まず画面中央になる川面の「行く手」がその明度とタッチのコントロールによって、はっきりと葉の「向こう」へ抜けてゆく空間を持っているからだと思える。空がないにもかかわらず、この絵が窒息せずに画面それ自体の物理的なサイズよりも遥かに巨大な空間を呼び込み孕むことができているのは、この川の流れの“画面の外からの”流入感覚にほかならない。一見、思わず数えられてしまうのではないかと思うような「貧しい」タッチと色彩のバリエは、おそろしく繊細に組み上げられることで画面の外からやって来て、やがて画面の外へ去ってゆく空間の道を貫通させている。そして、そのような絵がなお単なる大らかな風景画ではなく、何か感覚が圧縮されたような質を見せるのは、上記のような大きな空間とは背理するような、マットな平面性がその表面にあるからだ。


「小川」にはほとんど激しいマチエールがない。タッチの幅、長さ、方向もバリエが狭い。色彩も数色しか使われていない。やや薄められながら、しかしけして垂れ流れてしまうことのない程度にコントロールされた粘度の絵の具は、わずかに染込むような水彩的まろやかさを見せながら、フラットに積み重ねられ所々隣り合う場所でほんの僅かにキャンバスの地を感じさせる。明度、彩度においてもそのテクスチャーにおいてもほとんど差をもたない筆致達が、しかし一つ一つ置かれてゆく際のビビッドな感覚と厳格な正確さを合わせ持つことで、きらめくような輝きを実現させてゆく。この、徹底して限定された物理的平面性が、しかし感覚においてはゆらめきはじめるようなダイナミックさを成り立たせていることが、この「小川」という作品を、どんなにセザンヌを見知っている人であっても確実に立ち止まらせてしまうだろう作品にしている。


「小川」には、何か異質な感覚があって、それはことに画面向かって右上の細く分岐した枝の、震えるような、消え入るような線によく表れている。溶かれてわずかに透ける絵の具は揺れる線によってガラス細工のような脆さを感じさせながら、しかし精密な描きの構築によって、強力な危うさとでも言うしかない確固とした定着を示している。ブリヂストン美術館の「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」と共通する瑞々しさを感じさせながら、「小川」はより“軽く”描かれ、山や個物の形態というよりは、緑を透過し、水面で反射する光線のありよう、そしてその光線が成り立たせる空間に焦点が当たっているように思える。森の中の川の流れがこのような描きを喚起したのか、描きそれ自体が「小川」という風景、というよりは感覚を励起したのかは問う事ができない。それは一気に(不可分に)立上がったとしか言い様がないだろうと思う。


クリーブランド美術館展