クリーブランド美術館展ではいくつか気になる作品を見る事ができたが、思わず何かを言いたくなりながら、しかし躊躇してしまうのがモネの「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」だ。この作品は、どうにも「読む」事を要求してくる絵で、しかも作品それ自体を「読む」だけでなく、作品の「外」を意識せざるを得ない所がある。ほとんどこれは仕掛けられた罠ともいうべきもので、もっとも安全なのは近付かないことに決まっている。が、しかしそれでも尚、僕はアミにひっかかってみたいと思った。


「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」は縦99cm×横79.8cmの油絵で、キャンバスに描かれている。製作年はカタログに1868-1878年と記されている。室内から雪の屋外に立つモネ夫人を描いた作品で、まずキャンバスの矩形を反復するように四角い扉の枠がグレーで描かれる。その左右には扉よりやや暗いグレーで柱が示され、画面下辺にはややくすんだ褐色の床が描かれる。扉にはカーテンがかかっているが、中程で左右にまとめられ、窓の外が覗く。窓の外下1/3は白い水平のタッチで雪が描かれ、向かって左に鈍い緑、そして向かって右に、傘をさし、茶色のコートに真っ赤なスカーフを羽織った女性が、ふとこちらを見やったような何気ない仕種を見せている。そして、その雪景色に立つ女性を、扉のサンが、十字に切断している。


ステラのブラック・シリーズを想起するような、完全にシンメトリーの扉と柱、床による「絵の中に描かれた額」のような灰色の四角形の向こうに置かれたのは、やはり無彩色の雪の白とわずかに色着いた緑、コートの茶色だ。そこに完全にバルールを外した赤によって、ここだけシンメトリーを崩しながら扉の向こうで今まさに通り過ぎようとする女性の、意識するともなく(画家の視線を感じ取ったかのように)ふとこちらをみやる顔が包み込まれている。この絵の「罠」、と言うのが不適当なら「特色」は、こういった記述自体に表れている。昨日の、同じ展覧会に出されていたセザンヌ「小川」についてのエントリでは、僕は主にタッチ、絵の具の在り方を中心に言葉を記したが、「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」では、「扉」「柱」「戸外に立つ女性」といった、モチーフ=情景の記述をせざるをえない。この絵が感受させるのは、絵の具の構築による、絵画における空間といったものよりは映画的シーン、「物語り」を発動しそうな(風景ではない)「光景」だ。


こういった作品の横に、親切にもモネ婦人がこの絵の完成後間もなく亡くなり、モネは生涯この作品を手元に置いたという一言が添えられてしまえば、一気に観客は「物語り」そのものへと突入してしまう。隣に置かれた同じモネの「アンティーブの庭師の庭」(1888)の鮮やかな色彩とは対照的なグレー、あまりにも象徴的に(血液を想起させる)加えられた赤、「向う側」にいる(幽霊的なはかなさをみせる)モネ婦人。そしてそのモネ婦人を切断するような、画面中央にそびえる扉のサンによる十字。これだけお膳立てが揃ってしまえば、「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」は、おせっかいなキャプションの言う通り「運命」を読むしかない絵となってしまう。そして、画家が「生涯この作品を手元に置いた」とするならば、画家自身も、この作品に「物語り」を読んでいたことは間違いない事になる。伝記的事実に裏付けられた、あまりにも美しいドラマ。このドラマから身を翻すことは、ほとんど不可能に思える。


だがよく考えてみれば、つまりこの絵が描かれた現場に思いを巡らせてみれば、この「運命」が、あからさまな事後的虚構であることは明白な筈だ。単純に言ってこの絵が描かれた時モネ夫人は生きており、画家は間もなく訪れる夫人の死を知らない。この絵の純技術的な特徴を見れば、「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」で扱われているのは、「運命」ではなく「視覚」の問題ではないかと思える。この視覚は、距離の混乱によって起動させられる。扉のサンの「向こう」にある筈の赤いスカーフは、画面を見れば明らかにサンの「上」から、つまりサンを描いた後から置かれている。絵画における空間と言うのは、こういった即物的な順序によって示されうる。ごく普通に、後から、つまり上から置かれた絵の具は、下にある絵の具より前に見える。素朴な原則から言えば、扉の向こうにいる筈のモネ夫人のスカーフは先に描かれ、扉のサンがその上から、つまり後から描かれるべきなのだ。


「向こう」にいる筈のモネ夫人のスカーフが、しかし、その強烈な赤の色価(バルール)と描きの順序によって「手前」に押し出される感覚、やや非ロマンティックな言い方をすれば、トコロテンが押し出されるように扉のサンから「出て来る」感覚は、この絵のもっとも中核的な骨格を成す。画家の目を見返すような夫人のまなざしは、あきらかに観客を画家自身と同化させてゆくが、ここでは、まるでモネの視覚に飛び込んで来た雪の戸外の夫人の姿が、まさにその時と同じように観客の視覚に飛び込んでくる。モネの目になってしまった=つまり観客個々の主体が消え去ってしまったような「罠=カラクリ」は、戸外で画家の視線に捉えられ、ふと自己を消去してこちらを見てしまったモネ夫人と同じような「状況」に観客を立たせる。すなわち、この「赤いスカーフ、モネ夫人の肖像」という絵画を挟んで、モネ夫人と観客は対称な立場、すなわちモネの視覚に自己が乗っ取られたような「場所」に立つのだ。


この絵の完成後、間もなく亡くなったというモネ夫人と同じ「場所」に立ったからといって、自分も間もなく死ぬのではないかと恐れるような妄想に陥る観客はいるだろうか。そのような感情に捕われた時こそ、この絵の「物語り」が「罠」と化す瞬間かもしれないが、それこそモネ夫人を区切る扉のサンを十字架と見てしまう事から発生する虚構にすぎない(もちろんこの虚構は素晴らしく強力で、モネ自身さえそれに嵌っていた可能性があるのだけれど)。この十文字は、むしろモネの視覚のターゲット・スコープのようなものではないか。この絵を見るものは、(モネ夫人と同じように)モネの視覚に捉えられ、自らの視覚を失いモネの目そのものと化す。このような書き方にも「物語り」の気配があるだろうが、そこまで振り切れるような記述力は、僕にはない(やはり冒頭で危惧したように、僕も更に深い罠にかかったのかもしれない)。