実現してほしい、とある小さな展覧会へのメモ(来年に向けて)。

「落書き」が「絵画」と違うのはどこでしょうか。例えば抽象絵画を見て、子供の落書きのようだ、と思う人は少なくない。しかし、美術館などに立派に展示されているものを見て、はっきり落書きだ、と言う事はなかなか勇気がいります。そして、実際に、落書きと絵画には、なにかしらの差異がある。それはイコール「絵画」の方が「優れている」という事ではありません。「落書き」が子供のものだとして、大人が絵を描く時、「子供のように描く」ことは、相当難しいのです(時間がある大人の人は試してみて下さい)。「絵画」は、ある地点から見れば、落書きに“なれなかった”からこそ「絵画」なのかもしれません。


「落書き」と「絵画」は違うものです。しかし、ではその境界線がどこにあるのか、明確に示すことは意外なまでに難しい。それは、生命と物質が明らかに違うものであるにも関わらず、その境界線をひこうと思うと、ウイルスのような存在によって、思いがけなく「ここからが生命」「ここからが非生命」と言い切ることができなくなる事に似ています。


あまり話しを難しくする必要はないかもしれません。落書きと絵画作品の違いは、案外即物的なところにあります。絵画作品は額に納められていることが多いですが、落書きは紙のままです。絵画作品は美術館の壁にかかっていますが、落書きは住宅の床に散らばっています。置かれている場所が違い、存在の仕方が違う。ずいぶん昔に「便器を美術館に展示した人」が指摘している通り、落書きを額に入れて美術館の壁に展示してしまえば、それは完全に絵画作品として機能してしまいます。


「落書き」は、あるお膳立てで絵画になることができます。しかし、絵画は簡単に落書きになることはできません。セザンヌマチス、ダビンチやポロックの絵を額や木枠から外して床に置く事で、それを落書きと呼ぶことは可能でしょうか。不可能ではないとしても、やはりかなり勇気がいります。それは、まず第一に、彼等の作品が、極めて高度で複雑であるからです。では、なぜ彼等はそのような「複雑さ」を求めたのでしょう?「複雑」なことが「立派」だからではありません。それは、僕が考えるに、複雑さが彼等の-こういってよければ「大人」の条件だったからではないでしょうか。


人は、この世界の中で誠実に生きていこいうと思えば思う程、「複雑さ」と対面し続ける他はありません。だからこそ子供は(まさに生きて行くために)着実に大人になっていくし、一度大人になってしまえば、子供の「ふり」をすることはできても「子供そのもの」になることはできません。世界が複雑である以上、シンプルな子供でいようとすれば、嘘をつくか、世界そのものを拒否する他はないのです。落書きを絵画に成長させることは可能でも、大人の絵画を落書きに戻すには、「嘘」か「拒否」をくり返す他はないのです。


では、大人は、ただ大人であることで「生きて」いけるでしょうか。けしてそうではないことが、今、社会のあちこちではっきりしてきています。経験と「やり方」を覚えた大人は、複雑さにきちんと向かい合うことに疲れ、様々なことを「やりすごす」ことで、複雑な世界で生きて行く困難に直面することなく、あるいは積極的に回避し、もっと酷い場合には立場の弱いひとに押し付けて、「生き延びて」います。しかし、そのような矛盾は、徐々にそのような大人を脅かすまでに肥大しています。


だからこそ、今の大人たちは、どこかで子供に憧れています。まっすぐであること、媒介なく直接世界に触れあうこと。今日の空が青いことを、雨の降る音がきれいなことを、花がさくことを、鳥が飛ぶことを、ひとつひとつ「やりすごす」事なく驚きとともに感じ取り、そのたびごとに自分が作り替えられていくような感覚。このような感覚は、しかし、既に述べたように、簡単には取り戻すことができません。


もし可能性があるとすれば、それはもしかすると「老いる」ことにあるかもしれません。人は老いることで、大人から、ゆるやかに子供に接近しています。今日生きていること、一歩一歩あるくこと、人と会話が成立すること。そのように大人が何気なくやりすごしていることに驚き、喜ぶことが「再来」するのは「老い」がやってくる時です。徹底的に大人であることを強いられている人が、嘘や拒否によってではなく、もちろん子供そのものになることなく「子供の可能性」に接近してゆくには、「老い」を通過することが必要なのです。


僕は絵を描くことで、世界と接点をもち、世界の中で「生きて」いこうとしています。そういった場所で、嘘をつくことも、世界を拒否することもなく、世界を「やりすごす」こともなく暮らしていくにはどうしたらいいのでしょう。それはきっと、大人である僕が描く「絵画」の中に、落書きの持つ可能性を見ることにあるのではないか。しかも「子供の落書き」を模造するのではなく、一種の「老い」を通して絵画を描くことで絵画の骨格に迫るしかないのではないか。


幸い、今回の展覧会の会場は、「美術館」でも「住宅」でもありません。いわば、その中間にあるような性格を持っています(「壁」は美術館みたいだけど、「床」がなんだか住宅のように見えませんか?)。そして、僕の年令も、ちょうど子供と老人の中間と言えるところにさしかかってきました。このような場所で、絵画を、どこか落書きを“予感”させるように展開できたら、僕は、この世界をあと何十年か生きてゆくヒントを得ることができるかもしれない。そして、そのような僕の試みが、それを見て下さる方にとっても、なんらかのヒント(それが例え批判的なものであっても)になりうるのであれば、それはとても幸福なことだと思っています。

永瀬恭一