■
固定しえない様々なものをあえて固定し、あるカタチの中に定着するという行為は、必ず無茶な部分を含むし、場合によっては全体が無茶そのものになる。例えば恋愛において、今現在相手に魅了されているといっても明日はどうなるかわからないし、徹底的に微分してしまえば、それはほとんど瞬間ごとに変化してゆく感情と感覚の相互作用の、絶えまない明滅そのものになってしまう。これを例えば「恋人同士」という「形式」に定着することは、そのような微細な関係性の変化に枠組みをもうけ、ある閾値以下の変化を“流す”ことになるし、さらにこれを「結婚」という制度に登録してしまえば、今現在どころか、ある程度長い未来にわたってまでの「変化の可能性」を押さえ込んでいくことを、プライベートにおいても社会に向かってもはっきりと表明することになる。そのような、「固定」が排除してしまう豊かさを考えるとき、「固定」はなにか重大な裏切りに似たものに見えて来る。
だが、ここで注意しなければならないのは、そのような「固定」が行われたからといって、細かな揺らぎが「消えてなくなってしまう」わけではないということだ。恋人同士であれ夫婦であれ、そこには依然として様々な変化や感情の起伏、時には根本的な所を破壊しかねない大きな関係性の変化や、そのようなクライシスを準備する無数の感覚の集積が、絶えまなく生成していることにかわりがない。問題なのは、何が固定しえて何が固定しえないのかを見誤るところにある。けして固定しえない何事かを、固定しえたと錯覚した瞬間にこそ裏切りの芽が発芽するのだろう。
ではなぜ、人は固定しえないものを「固定します」とわざわざ宣言するのだろう。まずは絶えまない変化と向き合うことから、少なくともその姿勢において一定の距離をとることができる、という効果はある。このことによって、(なくなりはしない)微細な変動に直接影響を受けず、ある大きさ以上の波を適切に捉えてサーフすることができる(あまりにも精密に細かな揺れに対応していると、おうおうにして肝心な揺籃を見のがしたりする)。もう一つは、それはある「約束」として機能する、と言うことができると思う。「約束」というのは、けして「義務」ではない。ある将来に向かって、それが確実に守られ続けるという保証はなにもないけれども、今、ここにおける最大限の情熱と努力によって、様々な変化を通り抜けた上で、ある一定のイメージを遠い未来において実現しようという意思の表明。それを「約束」とするならば、ある種の「固定」は、意外にも別種の豊かさをもたらす可能性を持つ。
なまじ恋愛だ結婚だという例を持出したから話が混乱するかもしれないが、こと「結婚」においては、もちろんそれは「契約」なのでありある種の義務そのものだ。だから、それを一方的に破壊するようなことがあれば、その人はごく即物的にペナルティを課せられる。しかし、そのようなリスクを背負ってなお契約を結ぶということは、ひるがえって見ればそれを踏まえても良いというインセンティブがその段階であるからだ。結婚という制度が、思いのほか無数の闇を産んでいることを承知であえて乱暴に言えば、少なくともポジティブな場面においては、それは契約という側面以上に「約束」としてのウエイトが大きいのではないだろうか。
むろん僕は結婚について語っているわけではない(そう読まれてもかまわないのだが)。流れ続け変化しつづける世界に向かって打ち立てられる「約束」には、その基本に自分と対称の間の信頼というものを必要とする。信頼というものを維持し続けることは難しいが、恐らくコツとしてあるのは、それがある種の固定作業だからいって全てを完全に固定してしまわないということだと思う。大きな、ざっくりとした枠組みは用意しても、細部においてはあまりにも厳格には決めすぎないという「遊び」が必要なのだ。そしてもっとも重要なのは、それがいつかまったく無効になり、白紙になる可能性も同時に合わせ持つことを常に意識しておくことではないだろうか。そのような可能性は、約束を打ち立てた後に一定の緊張感をもたらし、なお持続している小さな揺れへの視線を確保する。また、まったく逆に、どこかにその約束に完全に拘束されず、全面的に自由になる部分も保持することにも繋がる。
当たり前だが、人は全てを約束することもできないし、ましてや実際に変化し続けるものを固定することもできない(固定できた、という誤解は暴力さえ引き起こす)。しかし同時に、何も約束しないままでいることは、ほとんど何も実現するつもりがない事でもある。固定することの不可能を知りながら、しかしそこになにがしかの「意思」を約束すること、これはけして揺らぎの切り捨てが目的なのではなく、むしろ豊かさを実らせるためにこそ為される。