ずいぶん前に、府中市美術館で松浦寿夫氏が絵画の公開製作をしているのを見に行っていた。松浦氏の作品は、3月になびす画廊で見た時のものとそれほど印象は変わらなかった。しかし全体の感触として、単調な気がした。ガラス戸のわきにモニタが設置され、そこで公開製作の模様が録画されたものが再生されていた。ガラス戸の向かって左には順次出来上がっていく松浦氏の作品の写真が(恐らく家庭用プリンタから出力されたものだろう)ずらりと張られていた。反対の右手にはスケジュール表が張られ、松浦氏の製作の日程やシンポジウムの予定などが記載されていた。既に製作は終了しており、今見られる状態が「完成」であることが読み取れた。しばらくガラスの前に立って作品を(そして室内の様子なども)眺めた後、椅子に座って再生映像を見た。


不思議な事が一つあった。どう見ても記録中の作品の方が「良い」気がしたのだ。普通に考えられるのは、製作途上の作品が良い状態であるのに、そこに過剰に手をいれ過ぎて作品が不活性化した、というパターンだが、何がおかしいかというと記録中の、すなわち製作途上のものの方が「密度が高い」感じがしたのだ。一度のせた絵の具の上から白で潰したのだろうか?しかし、ガラス越しに見る限り、実作にそのような痕跡は見てとれない。そもそも記録に残っている作品と、今展示されている作品が違うものなのだろうか。何度も張られている出力紙と展示されているキャンバスを見比べてみたが、どうしても感触が一致しない。恐らく室内に向かって正面右手の作品が経過が記録されているものに一番近いと思えたが、そう思い決めてもこの齟齬が消えない。なにか、消えてしまった良い作品の幻を追っ掛けている気になった。結局理由は判然としないままだった。


松浦氏の製作の模様をモニタで見ていて思ったのだが、この作家は「描く」ことに、極力ハードルを設けていない気がした。立て掛けられたキャンバスに、紙コップ中に溶いた絵の具をプラスチックらしい白いへらでがりりとひっかくようにのせては少しだけ下がり、またがりりと絵の具を延ばしたり新たに絵の具をのせたりしている。垂れる絵の具もそれほど頓着なく見ては描き見ては描きしている。へらの数も極端に少ないし(もしかして1本だけだっただろうか?)言ってしまえばキャンバスに絵の具を「のっけているだけ」だ。特別な材料もテクニックも駆使せず(かろうじて紙コップに溶いた絵の具にメディウムらしきものを混ぜているのが確認できたが)、ひたすらに絵の具を画面になすりつけている。


そして、その動作に合わせたように、キャンバスの大きさが決められているように思えた。この作家にとって、キャンバスがほぼ等身大であることは、このような「描き」、すなわち立て掛けたキャンバスの前に立って絵の具を乗せては上半身だけ反らせ(あるいは半歩だけ下がり)、何かを判断してはまた絵の具を乗せるという「動作」に一番支障が無いという事であり、そこに特殊な技術を介在させずに描いていく。ほとんど「構え」とか「効果的な段取り」みたいなものがない。


画面に絵の具をなすりつけるだけで出来上がっているのが松浦氏の絵画で、しかしだからこそそこには松浦氏の「動作」と「判断」だけが定着されていく。描くことの「上手さ」を徹底的に排除していこうとする気配すら読ませない何事かがあった。僕は一昨年の個展で松浦氏が、「上手さ」を迂回した果てにある洗練を見せていると書いたことがあるが(参考:id:eyck:20040615)、今年3月の個展では、そのような洗練をもあっさり放り投げたという印象を持った。今回の作品は、そこから更に「描きの抵抗」が取り除かれているように思える。


僕が今回の作品に感じた単調さに関しては、ここでの展示が「公開製作」であること、すなわち、時間が定められほとんど全ての「描き」の過程が他人によって見られていることを条件としていることを念頭に置かなければならない。時間が決められ、原則的にその時間は「描いている」ことが求められているとするならば、僕が想像するには恐らくそれは(昨日のエントリで取り上げたICCシンポジウムでの藤幡氏の言葉を借りれば)「仕事」をworkとjobに分けたとしてまず間違い無くjobとして「描いた」ことになるのではないかということだ。一番最初に思い付くのは「怠けられない」ということで、だいたい集中力が持続するというのは一定の時間に限られるし(集中していればいい、というのでもないのが面倒なのだが)、そうでない時間にjobのように筆をすすめるのはとても危険だ。実際の作業の事情は分からないから推測するしかないが、この作品は描く「日程」が定められ、その日程の中で特定の時間帯に「描く」ことが定められているのだろう。だとすれば、いわば画家のコンディションに関係なく、平均的に描かざるをえないのではないか。こうなれば嫌でも作品は単調になる。


ましてや「技術」や「段取り」で「効果」を産むということがまったくなされていない松浦氏のような「スタイル」では、その単調さがダイレクトに作品に反映されるだろう。「技術」や「段取り」が精密に組まれていれば、描きがいくら単調でもシステムにのっかって「効果」は必ず一定の品質を補償してしまう。工芸職人が自らのコンディションをある程度切り離して、その「技術」を発揮するために定められた「段取り」を踏むことで品物の質を常に同一に保つことができるのと逆の事態だ。ぼくがこの事をいまさらのように書きたくなったのは、このような単調さは、なまじ日常的に製作をしていると避けがたく現れてしまうということで、いつか書いた製作環境が生活環境と癒着していることと並んで、自分でもしっかり意識しなければならない事柄だと思えた。


しかし、同時に、松浦氏の製作の根本にあるものはこの時の公開製作でもはっきりと露出していたように思う。こういった企画では、一般的に考えれば画家は「かっこよく」みせたくなるのではないか=自分の核になるものを隠したくなるのではないかという気がするのだが、それがなんのカバーもなく、ほとんど無防備に曝されていたのが松浦氏の展示で、そういう意味では作品とは離れたところで一種の底知れ無さは感じた。