オペラシティ・アートギャラリーでプロジェクトN/山内崇嗣展を見た。この作家は変だ。まず混乱させられるのはその点数の多さだ。オペラシティ・アートギャラリーの長い廊下に沿って、61もの作品が一気に並んでいる。そのうちの数点はブランクになっている。展示されている絵画はほぼ全てキャンバスに油彩で描かれており、幅は多少のバリエーションがあるが高さは72.7cmで均一となっている。画題もサイズ+製作年月日の数値の羅列になっている。


作品の内容にアクセスするより先に、こういったフォーマットが感受されるのが今回の山内崇嗣展で、ほぼ等間隔で高さをそろえられたキャンバスがナンバリングだけでこの数提出されると、個別の作品を識別し、それぞれに「良い」「悪い」といった価値判断がなされなくなる。むろん作家はこのような事態に意識的なので、ここで求められているのは「善し悪し」ではない。言ってみれば「良い/悪い」といった絵画の「質」を判断するといった姿勢自体が行き場を失ってしまうのが山内氏の展示で、抽象表現主義以降の絵画が基準としてきた−すなわちグリーンバーグがいかに批判されつつも根本において延命してきた「趣味的判断」に対して改めてノーを示している。


かといって、例えばリヒターによる「アトラス」シリーズのような、徹底したシニニズムによる絵画の形式的羅列が目指されているわけではない。そのようなポスト・ヒストリカルな態度というよりはむしろ、抽象表現主義以前へ遡行しようとしているのが山内氏かもしれない。たとえばオーソドックスで擬似古典風な描写絵画の絵肌(わざわざ画面が剥がれ落ちたような処理が施されている)が喚起するのは、高島野十郎岸田劉生といった、日本の近代絵画におけるリアリズム絵画の系譜だ(実際、岸田劉生高橋由一の作品がコピーされている)。無論それは既に死んだものを揺り起こすような、ゾンビ的なものだが、そもそも彼等が、すなわち黒田清輝とその追従者によって葬られた「近代日本の美術のもう一つの可能性」が、かつて生きそして死んでしまったこと自体忘却されている状況下で、あえてゾンビを復活させることで、少なくとも死体の存在自体を「ニッポンの現代・美術」に再提示している。


「擬似」と書いたが、山内氏において「擬似」であることは、単なるニヒリズムを超えて積極的な意味を持っている。折衷様式の「擬似」洋風建築の一部をトリミングした絵画(一橋大学の柱頭などは人の顔に見える)や、オニグルミの枝が落ちた後の痕跡が動物の顔に擬せられて見える冬芽を扱った作品では、このような擬態が喚起するイメージを、ほとんど何の皮肉もなく、真直ぐに捉え描写している。「擬似」的なるものが、「良い」のでも「悪い」のでもなく、言ってみれば「面白い」と受け取る山内氏は、このような「面白さ」を、グリーンバーグ的「良い/悪い」といった価値判断に対抗して提出していて、なかば本気で近代以降の日本美術が依拠してきた「西洋から輸入され翻案されてきた価値観」を入れ替えてしまおうとしているかのようだ。この“対案”は、ニヒリズム的というよりは超のつくまじめな態度と言えるのではないか。そのような「超まじめ」な有り様に、いくらなんでも本気すぎるといった感覚を持つ人は僕だけではないだろう。


あるイメージが、本来あるべき文脈から規定される意味内容を持つのでは無く、まったく別の文脈からまったく違う意味として読まれてしまうといった事態、それは今回の展示でもまぎれこんでいる心霊写真というモチーフに典型的に見られる視覚の事故だが、山内氏はこのような事故は、単に個々のモチーフの問題ではなく、日本の近代美術そのものに起きているのだという認識を示している。山内氏は岸田劉生高橋由一を「正しい」と見ているのではなく、彼等の作品における、誤読や誤用といったものを認めた上で、そういったものを黒田清輝的正しさ、あるいは国内で抽象表現主義を「正しく」受容している(ことになっている)ようなもの=「偽の正しさ」よりもポジティブに見ているのだ。


整理して言い直せば、山内氏は現在の日本の美術状況を歴史的に捉え検討し、その問題点を指摘した上で代案を提示しているのであって、このような「現実的」な動きこそ擬似どころではない徹底したレアリストと言えるかもしれない。奈良・村上以降の、いわばアメリカ的市場主義を「擬して」ニッポンのアートの『世界水準』を確認しようとする“バカな”流れとも、ヨーロッパ的知性を「擬して」ほとんど流通しようもない「教養主義」の城を建築しようとする“利口な”流れにも与することなく、あくまで自らの立つ場所から見える世界を、自らの目だけをもってその可能性と不可能性によりわけようとする手付きはどこか博物学者めいている。山内氏が一見「面白主義者」のそぶりを「擬し」ながら、根本においてどこかラフな感じのない情熱を示してしまうのは、可能性を見い出す対象に対してあからさまに愛情を示している点で、そもそもそのような情熱がなければここまで「本気」の展覧会など実行する筈もない。


だが、そこに潜む陥穽を考えれば、山内氏の示す面白さこそ、正統的な近代思考が生み出す「良さ」を価値観とする立場からでしか発見することができない。山内氏は、「新しさ」の刺激をくり返すような空虚さを逃れ、自らを取り巻く既存の環境(そこには生活的な環境も、歴史的環境も含まれる)の中から、多くの人が取りこぼしている可能性/面白さを抽出し、意図的に制御している一種のもったりした油絵による描写(これ自体が山内氏にとっての魅力なのだろう)を通じて提示してくるが、このような「面白さ」こそ近代的「正しさ」からのズレ幅を正確に測定することで事後的に発見されるものではないだろうか。


技術的な面から見れば、この画家は描く場所と描かれない場所、つまり絵の具が置かれる場所と置かれない場所を反転させたりずらしてみせたりする(これは展示のブランク、すなわちタイトルだけがあり作品が置かれていないというような部分にも見られる)。また、印刷物の校正のカラーマークのように画面に「色見本」のような絵の具が置かれている。全体に出力途中のデジタル画像が途中でエラーをおこし処理を中断させられたかのような画面を生成するが、このような処理は単なるエフェクトの増大だけを目的としているのではなく、山内氏から見る日本美術史の把握からもたらされる。山内氏にとって、近代日本美術史は「エラーをおこし処理を中断させられた」ようなモノなのだ。そのエラーを丁寧に拾い集め、エラーをエラーとして再提示しているのが今回の山内崇嗣展かもしれない。その姿は孤独な気配を見せる(なにしろ山内氏に似た作家など思い付けないのだ)が、その孤独なありようこそ、もっとも「変」で「面白い」と言える。


●プロジェクトN/山内崇嗣