オペラシティのギャラリーでは、「伊東豊雄 建築|新しいリアル」展も開催されていた。この展覧会の冒頭では「物の持つ力」を強調する文言があったのだが、それが最後まで違和感として残った。違和感という言葉が断定的すぎるなら、不思議な感じ、と言ってもいいかもしれない。僕は伊東氏の実作をきちんと見たことも経験したこともないし、そうである以上実作については判断できずあくまで展覧会自体に限定した話になってしまうのだが、この食い違うような、あるいはちぐはぐな感覚には、なにか絵画についても考えうる契機が含まれている予感がする。


展覧会にあった模型や映像を見る限り、伊東氏の建築は曲面を大胆に使い、そのフォルムから内部空間にいたるまで、有機的/生物的なボリュームを見せている。平面を組み合わせるにしても、複雑な構造計算を行使して従来のキューブの組み合わせによるのではない、不均衡な空間を発生させている。うねる面が薄い膜で覆われていたり、透明に透けた中に斜線が走る構造があったりする。写真の展示を見たことによるかもしれないが、その有り様はとても視覚的で、しかもイマジネイティブ?な印象がある。このような、イメージ先行とも見える建築に対して、展示はその物質的基盤を(冒頭の言葉に従って)くり返しあらわに突き付ける。コンクリートで曲面を形成するための木枠の実物が置かれ、壁面には鉄筋が埋め込まれる。


また身体感覚の強調もくり返される。木枠の上を歩くことができるようになっており、また1室は全体をまるまる使って床が大きな起伏のある曲面に加工されている。所々に、置いてある模型や展示を見るための座席になるように穴が穿たれていて、そこを歩く際には怪我をしないように係員に十分注意を受ける。会場の終わりには、協力会社の名前が、現場作業用のヘルメットに記載されて壁面に並べられている。全体に、自らの建築が決してイメージの枠に納まるビジュアル先行のものではなく、あくまで物理的な素材-木材、鉄骨、コンクリート、ガラスといったものによって構成されており=そのことに伊東氏が意識的であり、しかもそのようなモノで構成された建築を「歩く」ことで、目だけではない、そこを訪れる人々のカラダに訴えているのだと宣しているように見える(曲面の床に穴が開いた部屋など、アラカワの天命反転住宅を想起した)。


一般に、建築においてマテリアルの感覚を惹起しその物理的構造を明解に感じさせるのはコルビジェ言うところの「住む機械」、すなわち近代建築に典型的に見られる直線、というよりは直方体による建築で、伊東氏の建築のような曲面によるアグレッシブな形態を持つ建築は、僕が最初に書いたように視覚的、イメージ的に受取られやすいだろう。モダニズムの時代においては、コルビジェ的なものに対抗するような存在として、やや先行するがガウディ、あるいはフンデルト・ワッサーなどが曲面を多用していた。ここで重視されていたのは視覚的シンボル性がもたらす象徴性や意味性だった筈で、このような反モダニズムポストモダニズムにずれこんでいき、まさに伊東氏が著明になってゆく時期にキッチュギリギリな線で換骨奪胎されていた筈だ。


もっとも年表パネルでは、1970-80年代の伊東氏の作品は、無論ポストモダニズムの潮流にあるものの、どちらかといえば禁欲的で「まっとう」な面構成をしていたように見える。これが変化するのがせんだいメディアテーク以降で、一気にその面構成がバロック的に“まがりはじめ”、何かジェットコースターのような空間が形成され始める。もっとも、だからといって以前同じオペラシティ・アートギャラリーで展示のあったジャン・ヌーベルほど「徹底して視覚先行」というような感触は受けない。それは主に、ジャン・ヌーベルが要所要所で垂直な「塔」のイメージ(M.R.アレクサンダーの「塔の思想」にあるように、あくまでそれは塔の偽者なのだが)を強い象徴性と共に提出しているのに対して、伊東氏は全体に水平に広がる/伸びるものを造っていることによるかもしれない。だが、それにしても、いってみてば先端的テクノロジーに牽引された「やわらかな」建築、あるいは知覚的(誤解を恐れずに言えば現象学的)建築であることは間違い無いように思える。


そこで急激に、何かに異義申し立てを行うかのようにハードな「物の持つ力」、これまた粗雑な言い方をすれば唯物性が強調されているところが、僕の感じたちぐはぐ感に繋がっていると思う。恐らく伊東氏は、まず自分の仕事がけしてコンピュータによる複雑な構造解析や材料加工の技術に基づく「やわらかなイメージ」あるいは「視覚性先行」だけのものではないと、強く主張したいのかもしれない。もっとポジティブに見れば、現在における物の感覚、あるいはマテリアルの有り様は1920年代とは全く異なっており、極端に複雑化し繊細な加工が可能になった「素材」は、けして以前のような単純な直線/立方体的構成の枠組みに納まらない、不定形なアメーバー、あるいは海綿(イヴ・クラインのコバルトを吸わされた海綿を参照)状の様態を見せ始める、ということかもしれない。(郡司ペギオ幸夫氏による「生きていることの科学」で扱われていた問題などとも繋がりうるのだろうか?)。


ここで絵画に話しをふれば、いわば写真によってイメージというものが絵画から一度奪われ、向かった先がセザンヌが予感し(これ自体留保が必要な通説だが)ピカソ/ブラックが押し進めたキューブによる画面構成(キュビズム)だったとして(ここに建築におけるモダニズムが対応するだろう)、抽象絵画ポップアートコンセプチュアルアート(建築ではインターナショナルスタイルからポストモダン、デコン?)といった流れの後で、改めてイメージとマテリアルを考える時、単純にポロックピカソセザンヌへと遡行するのではない、現在に即した思考が必要なのだと翻訳することは可能かもしれない。ただの連想で、安易にジャンルを通り越して思考を「応用」するのは危険だが、こう想像を働かせれば、門外漢の僕にも刺激の有る展示だった。


だが、こういった問題提起が可能だとして、つまり現在「物の力」を言うとしても単純に過去に遡行してモダニズムをなぞりなおすのではない、新たな地平からの検討が必要なのだとして、個人的には伊東氏の提示しているモノが説得力を持ってこない気がした。わざわざ組まれた現場の木枠や鉄骨が、何か後付けっぽく見えてしまうのは気のせいだろうか。伊東氏の今回の展示は、どこか有機的建築≒人体的建築の表皮を剥がし、その筋肉や骨格を露にしているように見える。それそのものは面白いのだが、どことなく建築における「人体の影(アントロポモルフィスム)」を批判していた磯崎新の言葉も思い出してしまうのだ。


伊東豊雄 建築|新しいリアル