ASK art space kimuraで藤幡正樹展「Portray the Silhouette-絵画の起原?-」を見た。会場には3つの映像作品が置かれていたが、1つは調整中で見ることができなかった。残り二つの作品のうち、1つだけについて書く。壁面に沿ってテーブルがあり、そこに固定された布と更にコーヒーカップが一つ置かれている。また、向かって左手に椅子が一脚置かれている。壁とテーブルを結んだ線上にプロジェクターが設置され、テーブル越しに映像を写し出す。このプロジェクターの光によって壁には四角く輝くスクリーンが出現する。机の上面ぎりぎりの影とそこに乗ったカップの影が写り、また向かって左はしには椅子の影も写る。カップの影には重なるように「撮影された同じカップの影」が重ねあわされ映写されていることがわかる。


指示に従って椅子に座ると、鑑賞者の影もスクリーンに写る。スクリーンにはテーブルの向かいに座る人の(撮影された)影が写し出される。つまり影絵としては鑑賞者と映像としての人物の影が向い合せになっているように見える。(撮影された)人物(の影)は考え込むような仕種を見せ、しばらくしてから席を離れる。やがて戻ってきた人物(の影)は、カップ2つ(の影)をテーブル(の影)上に置き、ポット(の影)を持ってカップ(の影)に飲み物(の影)を注ぐ。そして二つのカップ(の影)のうち、一つのカップ(の影)を、実際のカップの影に重なるように置く。またしばらくすると、人物(の影)はテーブル(の影)上を台布巾(の影)で拭く仕種を見せいなくなる。以降同様の映像がリピートされる。


スクリーン上ではあたかも鑑賞者の影と撮影され上映されている影が一瞬「向かい合っている」かのような錯覚がうまれるが、むしろここで感受されるのは反対の「向かい合えない」という状況だ。自分の影が影でしかないのと同じで、上映されている人物(の影)も(撮影され上映された)影にすぎない。現実の対面には何もなく、写る影とコミュニケーションできるわけでもない。上映されている人物(の影)はあくまで「一人の動き」をしている。表れて座った直後は何か考え込み悩むような動き、つまりまるで目の前にはいない、想定しうる影に向かって話し掛けようとしながら口籠るような動きをした後、これまた仮染めの来場者に向かって飲み物(の影)を注ぐ。その飲み物(の影)はリアルなカップと重なるが、当然リアルなカップは空だ。その後人物(の影)は、実際の観客がまだそこに座っていようといなかろうと「はい、おしまい」とでもいいたげに勝手にかたずける(テーブルを拭く)仕種を見せる。ここでは実体の影、撮影された素材としての影、映写された影、影に重ねられた影といったものが重層化されている。


僕は先に藤幡氏の参加したICCシンポジウムと昨年の同じASK art space kimuraで展示されていた「無分別な鏡」について、藤幡氏の立てる問いは「メディアアートとは何か」といったレベルを超え、テクノロジー、あるいはメディアそれ自体に立脚し視覚というシステムの間隙にアプローチしていると書いたが(参考:id:eyck:20061026)、今回の展示ではさらに芸術とはなんなのか、といった“遡行”をしているように見える。少なくとも、藤幡氏がメディアアートというジャンルが陥りがちな「未来」指向ではなく、はっきりと「過去」へと視線を向けていることには間違い無い。今回の作品も記憶やその不在、あるいは記録と現在のずれ、「残されたもの」におけるコミュニケーションの可能性と不可能性を感受させるものであり、なんといっても「影絵」という写像の起点において発想されている。すなわち「過去」に基づいている。


このことは、藤幡氏の現在の姿勢を端的に示している。藤幡氏は先端的なテクノロジーを完成度の高いビジュアルと共に組み合わせその断層を示すかのような方向から、原理的、あるいは(作家の言葉に沿うなら)「起源」へ遡るというベクトルを示している。要素還元的、ともいえるかもしれない。今回の作品で使用されているのは単純なプロジェクターであり、影の撮影に関しても(そこに細心の注意を払っているにしても)技術的には単純なものだろう。しかし示されているのは、例えば芸術の起源が古代ギリシャにおいて「イデア写像」であったという(パノフスキー)事とパラレルな関係をもつような射程だ。


メディアをメディウムと捕らえた時、そこには技術、コミュニケーション、社会関係など複雑な要素が織り込まれるが、藤幡氏はそれを主に視覚、というよりは視線の関係性というものに圧縮し思考している。視線には視覚のシステムやテクノロジー、見る/見られるといったコミュニケーションあるいは権力関係が束ねられている。藤幡氏は「メディアのコンディションをチェックする」という言い方をしていたが、これはメディアというメディウムの探究といえる。藤幡氏はまるでモダニズムの画家が絵の具を扱うようにメディア/テクノロジーを扱っている。視線という課題、あるいは世界の写しという課題は絵画において長い歴史を持つが、さらにそのようなイメージをなりたたせる、絵画というメディアおよびそのメディウムの「チェック」こそ近代絵画史の重要な論点であって、藤幡氏が逆説的につけた筈の「絵画の起原?」という疑問符付きタイトル(もちろんそこには映像の起源、という意味が読み取られることが期待されている)が、実はダイレクトに絵画の問題と重なりうる。


藤幡氏は過去「不完全さの克服」という展覧会をしているが、恐らくそこでは人間の側からテクノロジーを見るのではなく、テクノロジーの側から人間を見る=テクノロジーの完全なる世界から人間の不完全な世界を見る、というコンセプトがあったように思える(僕はこの展覧会を見ていないので推測するしかないが)。そのことが藤幡氏の作品に非人間的な輝きを与えていたとして、それに対する今回の作品は、使用されているテクノロジーがローテックなものになった為かどこか人間的な感触を備えている。写される人物の影は多分に藤幡氏本人を想起させる輪郭を持っているし、そこで喚起されるイメージはたとえ非コミュニケーションであったとしても、まさにその非コミュニケーションそのものが極めて「人間的」だと感じられる。このような「人間回帰」が藤幡氏の思考においてどのような位置を占めるのかは僕にはわからない。今後の展開を見るしかない。


藤幡正樹展「Portray the Silhouette-絵画の起原?-」