損保ジャパン美術館で「ウイーン美術アカデミー名品展」を見た。僕は覚えているかぎりクラナッハという画家の絵を見るのは初めてで、ウフィッツィにクラナッハの友人だったルターの肖像があったのだが見ていない。北方ルネサンスのコレクションがある部屋が閉じられていたためだろう。今回の展示ではクラナッハ(父)名義の作品と工房名義のものが来ていて、会期も迫っていたので慌てて見に行った。


「不釣り合いなカップル」(1531年)は、細部までピントが合い、あまり奥行きが発生しないような画面に、いくつかの見るべきポイントがばらばらに点在していてそれを繋げいくつかの層を重ねて読み込ませている。女性の胸と腰を抱く老人と、それを受け入れながら老人の財布に手をやる女性は奇妙にねじれている。女性の右手は老人の背後を回って彼の肩にかけられているが、この手がほとんど女性と連続せず、ぽんと手首だけ置かれたように見える。


また、肩から伸びて老人の財布に至る左手も、その腕の伸びる動きを寸断するような袖の模様によって、いわば幾重にも切り離され、女性の身体から独立してあるように見える。絵画技術上、腕や足などは、そのムーブメント、すなわちすらりと伸びる四肢の方向に合わせて筆を運ぶ、あるいはそのような動きを感受させる服のしわを描くことで「自然に」見せたりもするのだが、ここでは服の模様や装飾がやや強く描かれ、手と身体の連合が解かれている。


このような事は装飾性の強い絵画にはありふれているが、この絵においては積極的な意味を持つ。「不釣り合いなカップル」は題材は道徳的ことわざを扱っているが、読み込まれるイメージは性的なものでこの時代の絵画に要請された市場性のある側面がはっきりとわかる。絵画の社会的形式と図像上の性的イメージが分離しながら同時に1つにまとめられている。女性は老人の欲望を受け入れながらその財布に手を伸ばすという行為の分断化=身体と手の連合の解除があることになる(女性の目は老人を見ないでうつろに上を見ている)。


同時にこの財布の位置は老人の股間にあたっていて「女性が財布に手を入れている」という像が、まったく違う意味も孕むことになる。すなわち、ここで道徳的主題に重ねられたポルノグラフィックなイメージをになっているのは、直接的には好色な老人であって、女性はそれに表面的には従いながら一方ではその財布を狙っているのだが、その財布が股間と重ね合わされることで、狡猾さと従順さの分裂の表象だった筈の女性の顔のうつろさが、更にずれた位相では露骨なエクスタシーの表現にもなっていく。


クラナッハの作品はどれも板にテンペラか油彩で描かれていたのだが、その差はほとんどわからない。一見して滑らかで堅固さを感じさせる表面をしていて、どこか螺鈿細工のような感触を覚える。裕福な層の「隠れた愉しみ」を供給していたのがクラナッハなのであって、こういう職業人がルターと親交を持っていたというのは面白い(あるいはそれゆえ、ということなのだろうか)。


他にはファン・ダイクの15才の時の自画像があったのだが、僕はこの画家の絵を初めて面白いと思った。若描きの感は残るが、この後に見せるまったく品質にぶれのない肖像画にはない筆はこびのゆらぎがあって魅力的だった。表面に残る細かい黒い点は保護ニスの拭き取りによるものだろうか?レンブラントの「若い女の肖像」も画家の20代の作品らしく、後の崩れるような自画像を描くようになるレンブラントが、まだなんの疑いもなく技術的完成度を追求していて、鮮やかな黒にかぶせられた白いレースの透けた表現などはぞくりとするような艶かしさを感じさせた。ルーベンス、ムリーリョなども佳品が来ていたが、18-19世紀以降の新古典主義のものは急に形骸化が進んでいた。その中で1点クールベの粗いタッチによる風景画がまぎれこんでいたのだが、こう見るとやはりクールベというのは異質な存在だったのだなぁ、と思ってしまう。この展覧会は既に終了している。