江戸東京博物館ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」を見て来た。ボストン美術館で公開されずにいたビゲローという医師のコレクションを調査しそこから集めた肉筆画を中心にした展覧会で、僕は江戸時代の肉筆浮世絵というものは良く知らないのだが、80点という量だけでなく、かなり水準の高いものが含まれていたと思う。正直言って軽い気持ちで見に行ったのだけど、いざ見始めたら時間が足りずに後悔してしまった。


質感(質、というのとはやや違う)ということならダントツと思えたのが2点の春画で、まぁ公営博物館らしく?比較的あたりさわりのない場面だけが開かれていたのだが、その分ポルノグラフィとしてのエグさではない、徹底した工芸絵画としてのクオリティの追求を感じ取ることができた。勝川春潮「あぶな絵尽くし」と鳥文斎栄之「象の綱」がそれで、ケースに平置きで覗き込むように(つまり壁面ケースに展示されるものよりかなり近い距離で)見たためか、絹本の肌理の上に恐ろしく繊細に絵の具が置かれ線がひかれている事が確認できる。こういうふうに「覗き込む」ような見方は、たぶんこの種のものとしては正しいのだろう。


この二つの肉筆春画では、かすかに照明に光る地の絹の面に対して、絵の具が置かれている面がくっきりと立上がるように感じられ、単なる図像によるものではない、ある種の「絵の具の艶かしさ」というようなものが見てとれる。洗練された筆運びにより「滲み」や「探るタッチ」が存在せず、色面と地の境界が冴えていることが大きいと思うが、もちろんこのような「絵(の具)の艶かしさ」に対して絵師は意識的で、そのようなオブジェクトとしての肉筆画の官能性と主題の重ね合わせは、こういった作品ではある程度求められるものだったのかもしれない。


二人の絵師の、あくまで職業工芸家としての在り方、絵肌からは平面の絵というよりは、とてもよくできたプロダクトという感触を受ける。連想するのはフェラーリのつややかな赤の塗装とかだ。同じ浮世絵でも普及品の木版画では、どうしたって薄い紙にパンパンと明解に色面が構成されていくグラフィックとしての切れ味が勝負になるのだが、一点物の肉筆画では、はっきりとモノとしての所有欲が満たされるように造形されている。スポーツカーを引き合いに出したのは流石に突拍子もないかもしれない。比較するなら現代のポルノコミックやゲーム、アニメーションなのだろうとは思うが、いまや製作の最初からデジタル化されているそれらの商品に決定的に欠けているのは素材への感覚(というか、そこは意図的に排除しイメージの強化に徹しているのだろう)で、どちらかと言えばよく出来たフィギュア(僕が想起するのは村上隆氏の展示で見たボーメ氏製作のものだ)とかの方が、ずっと与えられる感覚としては似ている。


葛飾北斎に関しては、僕は以前木版画は良いが肉筆画はつまらない、と言ったことがある(参考:id:eyck:20060828)。北斎があくまで木版画においてこそ最もその能力を発揮するという思いは変りがないが、今回北斎の肉筆画をいくつか見てみて、案外悪くないな、と感じた。僕は北斎の肉筆画で良いものを見ていなかったのだろう。率直に言えば同時代の他の絵師より肉筆画はレベルが低い、と思っていたのだが、少なくとも同程度には描けている作品があったのだと初めて感じた。そうは言っても、やはり版画のシャープさが上回っているのは確実で、つまり木版画で発現する一目で作家の固有名詞が出て来てしまうような強さはない。北斎が「絵師」であることに強烈にこだわったという伝承は、むしろ北斎が自らの量産浮世絵(木版)画家としての資質を十分自覚していたことの裏返しなのではないかと想像する。スタイルとかの問題以前に、どこか「絵師らしい絵」をなぞって描いているような印象がある。江戸時代末期から明治にかけて活動した暁斎が、その晩年に「絵師」ではなく「(近代的)画家」としてあろうとした事が重なる。


面白い/つまらない、という話しをするなら、菱川師宣鳥山石燕の描いた妖怪絵巻などは、とりあえず面白い。ろくろ首というのは、首がそのまま長くなるものと思っていたが(妖怪大戦争みたいなやつ)、胴体からタコ糸みたいなのが伸びて、その先に首があるという図は初めて見た。有線リモコンみたいだ。でも、妖怪と聞いて思い浮かべるものは江戸期と今で全体にあまり違いがないな、とも感じた。これは水木しげるあたりが、かなり近世のものに忠実に妖怪のイメージを伝承しているのだろう。


将来、ボストン美術館水木しげるの原画を所蔵するなどということはありえないが、国内では何か保存は考えられているのだろうか。とりあえず水木しげる大友克洋の原画は押さえていいと思う(こうの史代の「夕凪の町・桜の国」も)。大島弓子の文庫の後書きで、フロイト1/2を刷り直す時に紙が劣化していたという話しがあったが、官庁主導でオタク産業をどうこう、なんていう逆効果しか予想されない施策をするよりは、こういった物を厳選してきちんと管理するシステムでも作った方がいい。贅沢品の江戸期の肉筆浮世絵と違って、紙の質が低いであろう事を考えるとタイムリミットは迫っている(手塚のように民間で勝手にミュージアムができてしまうような作家のものだけ残ればいい、というのも一つの見識だけれども)。


ゲームのようなデジタルデータなら永久に劣化しない、というのはもちろん幻想で、デジタルであることほど寿命の短いものもない。再生できないデータなど既にある。東京都写真美術館とかは、そういった事を多少は意識しているかもしれないが、どうなっているのだろう。アートの問題というよりは文化政策の範疇だ(江戸期の浮世絵も現代のゲームも、良くできているものは文化的博物品で、この展覧会が江戸東京“博物館”で行われたのは文脈として正しい)が、考えるべき人は考えているのだろうか。


ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」