東京都美術館で大エルミタージュ美術館展。「大」は余計だ。エルミタージュは確かに巨大な美術館だが、今回日本に来ているのはけしてエルミタージュの中核的なコレクションではない(そんなものは門外不出かもしれないが)。エルミタージュと聞けば誰でもレオナルドやラファエロの名を思い出す。しかし今上野で見られるものの中で良い、と思える作品はむしろ近代絵画のいくつかの作品であって、ポスターにゴーギャンを使っているのは正直ではあるものの、やはり「大」をつけると逆効果な気がする。この展覧会名から期待を膨らませていた観客は(僕もそうだが)多少肩すかしを食らう。中盤以降でいくつか充実したものが見られたが、素直にそういった展覧会なのだとアピールした方が良かったのではないか。せっかくのコンセプトの立て方も、どこか地味な作品群にたいするこじつけめいて見える。こんなお題目を唱えるなら、もっと作品を絞って明解な構成にすべきだろう。


いきなり文句ブーブーだが、休日の上野で人にまみれて見てしまった疲れの八つ当たりも混ざっている。落ち着いて考えれば、やっぱりエルミタージュのコレクションが日本で見られるのは貴重だし、現地に行く幸福な人がいても、いざとなったらイタリア絵画やフランドル絵画の圧倒的な質にばかり目が行って、近代絵画のセクションになかなか目がいかないのではないだろうか(例えば僕はウフィッツイでは、1400年代の作品にばかり集中して、エル・グレコシャルダンといった、もし日本に来ていれば垂涎の的になりそうな画家の作品の前で呆然としていた)。


とはいえ、やはりイタリアの古典に良いものがないのは寂しい。唯一目に止まったのはヴェロネーゼの「エジプトへの逃避途上の休息」で、面白いのが地面や背景に生える雑草の表現だ。平滑に仕上げられた地面に、厚味をもった緑の絵の具がぐいぐいっと慣れた手付きでぺたぺた張り付けられ、そこの半分に暗い褐色の薄いおつゆ(溶き油で溶いた透明度の高い絵の具をこう呼ぶ)を施して葉の構造を暗示させる。つまり、離れて見ると厚味のある葉が中心の葉脈に沿って軽く折れているように見える。ほとんど飴細工の職人みたいな仕事だが、こんなケーキの飾りみたいな絵の具が、なぜ「植物の葉」に見えるのか、しかも迫真的なリアリティをもって見えるのかは専門家ですら(厳密には描いた本人にすら)分からない。あきらかにこの周辺的な葉の表現は一種の過剰さを孕んでいて、マリアの左足の上には葉が謎めいた形で(つまりそこにあるのが不合理に見える)描き足されている。


ドニの「婚礼の行列」とかが出てくるあたりからは、ぽつぽつと面白い作品が出て来はじめる。ぼくはけしてドニの良い観客ではないが、この、どこか中途半端な感じを見るたびに覚える画家は、たぶんとても知的なのだ。「婚礼の行列」は横に長い構図で、この構図の中を人物や樹木が縦に刻んでいく、そのリズムが効果を上げているのだけど、そこで終わってしまっていて、ちょっと喰い足りない感じがした。逆を言えばそこがこの作家のセンスの良さなのかもしれない。地面に落ちる葉の影に基づくグレーの曲線の帯がほとんど蛇のようであり、このグロテスクな蛇状の影が花嫁のドレスに絡むあたりの見せ方とか、小憎らしいところで寸止めしてあって、すこしもたついた絵の具ののせ方なんかも、意図的なのかと思えた。


こういう「喰いたり無い」感じが、この展覧会中もっとも充実している印象派前後の作品群でもいちいち感じ取れる。作品をチョイスした人の趣味でも反映しているのだろうか?例えばボナールの「ヴェルノン近郊のセーヌ川」や「貨物列車のある風景」なんかもとても気持ちいい絵だと思うのだが、どこかボナールらしい“あの”もっさり感というかしつこさが薄めで、センスの良い風景画におさまっている。モネの「ジヴェルニーの干し草」やピカソマチスの作品にしても同様で、これがどこかのこじんまりした建物にたっぷりと空間をとって置いてあるのなら素敵だと思うのだが、相応に混んでいる都美術館の環境でたくさんの数のうちの一つとして見せられると、少しとっかかりを見失いがちになる。そういう意味ではゴーギャンの「果実を持つ女」は流石に充実していて、これがこの展覧会の「顔」になっているのも無理からぬ事だと思う。


ルーブルだろうがプラドだろうがMOMAだろうが、万の単位と言われるような収蔵品を持っていても、その中で本当に充実している、力のある作品と言うのはごく僅かで、それはどこに行ってもある程度そうだろう。強い作品と言うのはとことん貴重で、セザンヌゴッホですら、描いた作品全てが良いわけではない、というか、時にはあからさまにつまらない作品だってある。絵画の黄金時代と言われるような年代でもそうなのだし、言い方を変えれば、ある一定の頻度で、確かに面白い絵画と言われるものは出てきているのだ。エルミタージュが大量の「イマイチの作品」を抱え込んでいるのは当然の話で、効率よく「良い」作品だけ持つことなどできるわけがない。エルミタージュが豊かであるのは、膨大な無駄を抱えられるという精神的な容量を指しての事なのだろう(日本の美術館におうおうに欠けているのはこういう点だ)。しかし、わざわざ極東にまで持って来るのだから、展覧会としてはもう少し骨格というものが必要なのではないか。今から来年のオルセー美術館展が心配になる。


●大エルミタージュ美術館