こうの史代の漫画「さんさん録」を読み終えて感じる不思議な感覚は、恐らく最終話の「見てると思わなきゃいいのよ」という副題によって立ち上げられる。極端な言い方をすれば、この言葉によって2冊にわたる「さんさん録」のすべてのコマが、主人公・参平の死んだ妻・鶴子の視点から描かれているかのように見えるのだ。死後の世界から見つめられつづける、残された参平の世界は、ゆるぎない死者の支配を受けつづける。このリモート・コントロールを可能にしているのが死んだ妻の残した「さんさん録」で、このノートによって主人公は、自らが今まで顧みてこなかった「妻の世界」を生き直すことになる。


参平は、妻の死によって一度精神的に死んでしまう=いろんなことがどうでも良くなってしまうが、それを見かねた息子・詩郎一家によって、改めて生きることを強いられる。そこで問われるのは「改めて生きるとはどういうことなのか」だが、そこで彼に恩寵のように与えられるのが妻が残したサバイバル・マニュアル「奥田家の記録(さんさん録)」だ。これは主人公がいままで触れずにいた「生(活)」の下部構造を網羅した、即物的なライフノート(デスノートの反対版で、ここに名前を書かれた人間は、確実に生きていくことを約束されてしまう)で、「生きることとは生活することだ」という解が、息子夫婦の家庭内で居場所を探しウロウロとしていた参平に示される。


食事を作り、繕い物をし、洗濯をし、掃除をするということが、一度全てを放り投げた老人・参平にとっての「生きる」ことになるはずだという鶴子の遺志/意思は、たんなる先立った妻の思い遣りというよりは「そうあって欲しい」という欲望を内包したものになる。事実、このノートに導かれるように、参平が主夫という地位を息子一家の中で占めてゆくプロセスにおいて「生かされる」のは、実は参平以上に女達だ。息子の嫁・礼花は諦めていた花屋の仕事を家事から解放されることで再開し、働く女である仙川さんは、諦めていた詩郎への恋心を、対象を参平に移す事で再び花開かせる。もっとも自由を拡大するのはある意味孫娘の乃菜で、ここで彼女は「オトナの証」であるシゴトからリタイアした参平によって、いわば対等な存在を獲得し、遊びや勉強のあらゆる面で「じいさん」を足掛かりにしてゆくし、ついでに初恋と失恋のクッションもになってもらう。


参平がさんさん録を土台としていくことで、参平の周囲の女達は恋も仕事も遊びも勉強も、全てを断念することなく伸びやかにふるまい始める。それはほとんどさんさん録を残して死んだ鶴子の夢の投影であるかのようだ。24話「赤い糸」で、夢の中に出てくる鶴子は、さんさん録を元に編み物を始める参平に向かって以下のように言う。

面白そうだから書いといたけどわたしは結局せずじまいだったのよね
…ついでに思いがけない恋もせず失恋もしそびれた

参さんがまじめだったおかげでヤキモチもやきそこねたわねぇ

参さん
わたしのしそこねた事をうんとして下さい
わたしの出会いそこねた人をうんと大切にして下さい
(第24話「赤い糸」)


これは鶴子から参平への言葉というよりは、参平を通した参平の周囲の女達への呼び掛けだ。かつて仕事ばかりに集中し家庭を顧みず、たまに顔を見せれば「誰がくわしてやってるんだ」と自分のエゴを通していた参平が、鶴子の「さんさん録」に手を導かれて家事を担うことで、身の回りの女達のエゴをやわらかに吸収し始める。そして世界は再生を開始する。ここで再生するのは、まさに鶴子にとっての世界だと言える。「さんさん録」は全編を通して意図的に俯瞰構図が多用される。ここで超越的な俯瞰的立場から世界を見渡し、世界を見守り、そして世界をある一定の方向に導いているのは鶴子であって、すなわち「さんさん録」で描かれる光景は、参平の視界ではなく死者たる鶴子の視界なのだ。ここでは参平のエゴは極限までに縮減し、女達のエゴは全面的に肯定される。そして、読者は鶴子の視界を自分の視界であるかのように物語りを読み進めてゆき、いつしか鶴子に意識を占拠される。


不自然なことに、ここに登場する女性達相互の間には、一切コンフリクトが発生しない。嫁の礼花は仙川さんが(夫の次ぎに)義父に好意を持つことに何の抵抗も示さないし(かろうじて参平に「さみしい」と言うだけで、これは全面的な事態の受け入れ表明でしかない)、くり返し仙川さんが家族と接触を持つことにためらいが無い(あまりに当たり前のように家に上げる)。仙川さんにしても、バレンタインの日に参平相手にチョコレートを手渡そうとするのに、なんと一家そろった奥田家の居間にやってくる。実際は未遂に終わるのだが、何度も一家だんらんの目の前でチョコレートを出そうという仕種を見せる。その仕種は礼花と完全にシンクロしている。なぜそのような事が起きるのかといえば、この作品の中では、ほとんど礼花も仙川さんも、同じコインの裏表のようなものだからだ。「長い道」で、地味な道の姉が華やかな女性だったが、「さんさん録」での礼花と仙川さんの関係性は、これとまったく同じだと言っていい。


礼花と仙川さんが姉妹的関係にあるとすれば、礼花の娘の乃菜も、礼花の義母の鶴子も同じ輪の部分部分となってゆくだろう(当然だが、礼花と鶴子の間に嫁姑問題など存在しない)。最終話近く、参平は「さんさん録」を詩郎に与えるが、これはけして仙川さんへの恋を通して参平が「自立」したわけではない。むしろ一字一句覚えていく事によって、「さんさん録」=鶴子を内面化したのだ(仙川さんが参平にキスをする時点で、その内面化は完成していただろう)。「見てると思わなきゃいいのよ」という鶴子の言葉は、逆接的な自信の現れだ。今後、たとえ「さんさん録」がなくても鶴子は参平の内部に生き、鶴子の夢が投影された仙川さんをより自由に解放してゆくだろう。そして、「さんさん録」は(まるで「リング」のビデオのように)リレーされた詩郎の元で、新たな“教育”を開始する。この引き継ぎによって、詩郎は内心快く思っていなかった礼花の仕事も、危険を伴った第2子の出産も、全面的に受け入れ支援していくことになる。


僕はこの話しの雑誌連載中に1話だけ読んで「レズビアン的資質をもったこうの氏が女性を描かない」と驚いたが(参考:id:eyck:20050913)、これはまったく外していて、こうの氏はむしろ老人男性を主役に置くことで、ほとんど開き直ったかのように「女性性のユートピア」を描いたと言える。どうしても納得がいかないのがこの作品の短さで、いくらなんでも上下2冊というのは短すぎる。参平が家事を習得し、仙川さんとの関係を煮詰めて行くには平気で5倍くらいのボリュームがかけられたのではないかと思うので、そういう意味でも無駄に長く引き延ばしてしまった「デスノート」と好対照を見せる。もう少し読んでいたいと思ったのは僕だけなのだろうか。