「コープス・ブライト」をDVDで見たのだが、この映画は技術的な点に感心する他ない映画で、面白く無い。いくらなんでも「女(の人形)」たちが優しすぎて主役の「男(の人形)」が一切傷を負うこともなければ泥をかぶることもないところがあんまりだ、と突っ込みを入れたくなるのだけど、要はそのような「自己イメージの防御」が全面的に追求された結果、この映画は恐ろしく完成されたつまらなさを確立してしまったのだと思う。とにかくこの映画では、主人公の「男(の人形)」が一切汚れない。問題はすべて自分以外の事から発生し、そのすべてに対して「男(の人形)」は徹底して被害者であり、被害者である以上無垢なままだ。そんな「男(の人形)」を導き、受け入れ、許し、愛し、さらに解放までしてくれるのは常に「女(の人形)」であって、監督ティム・バートンのあまりの「保護された子供の世界の追求」っぷりが、なまじ丁寧に作りこまれた人形アニメのおかげで息苦しくなっている。


この映画の技術的追求は、無邪気かつ安易な幼児的幻想を「作品」としてなりたたせるためのいいわけになってしまっている。生者の世界が暗く沈うつで、死者の世界がイキイキしてるとかいう絵づくりも、簡単な二元論を簡単にひっくり返しているだけで、別に意外性はない。とにかく、高度に技術が洗練されればされるほどつまらなさが倍増していくのがこの作品の特徴で、その丁寧さが、ひとつづつ「コープス・ブライト」から“笑い”、つまり世界を突き放し、ずらし、骨折させ、ずっこけさせる“笑い”を奪ってゆく。代わりに漏れるのが「へー」という感心のため息で、なんだかんだ言って楽しく見ることができた「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」にあったこう笑が、「コープス・ブライト」にはまったくない。


「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」は、今どき本気でエンターティメント映画として誰も手をつけない人形アニメ(旧ソビエトではかつてテレビ用に「チェブラーシカ」が撮られていたし「ムーミン」のパペット・アニメがポーランドオーストリアで撮られていたりしたのだが)をあえて撮り、その「存在のちぐはぐさ」が、キャラクターの動きのぎこちなさとリンクし、更に死者の世界のグロテスクさを生者の世界に反転させ投射することでシニカルなギャグプログラムとして成立していたように思う。このシニカルさこそむしろとことん「アメリカ的」と言えるもので、たとえば「チェブラーシカ」や「ムーミン」(ぼくはどちらもDVDでしか見ていないのだが)が、ソビエトポーランドといったヨーロッパの東側での、一種の文化的基礎からベタに作られ(恐らく東欧では子供向けファンタジー映像を作るとすれば、セルアニメよりもパペット・アニメなのだろう)、独自の世界を獲得しているのに対して、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」は、あえてアメリカのハリウッド的エンターテイメント映画システムの中で、なんの根拠も脈絡もなくパペット・アニメをやってしまった、というムチャクチャさが、あの画面上での、跳ねるような軽快さに繋がっていたと思う。


「コープス・ブライト」にはズッコケがない。いかに人形達が見事に飛んだり跳ねたりしても、その動作に軽快さがなくぬめぬめとした重さがある。映画のシーンとしては、もちろんズッコケはふんだんにある。主人公は氷りでずっこけるし、ガイコツは骨が外れて分解する。だが、シーンとしてズッコケが描かれても、そのシーン自体はあまりに隙無く撮られているので全然「ズッコケ」てはいないのだ。こんな立派なズッコケを見せられても、感心はしても感動はしない。むろん、テキトウに撮ればよかった、という話しをしているのではない。ティム・バートンは、人形という絶対に「リアルさ」では生身の人間にかなわない素材を精巧に作り上げ、操作し、完璧に決め込んでいくことでその虚構性を突破し、ある種のなまなましさに辿り着こうとしたのだと思う。が、その賭けに失敗して、単に完璧な虚構が出来上がってしまったのだ。


僕はこの映画が失敗した理由として、どこかに「美」あるいは「芸術」という言葉の罠があったように思う。ティム・バートンはもともと美的な映画監督だが、今まではそのポジションから、けしてその美的幻想を完全には描ききれない条件をもっていたのではないか。予算がなかったりスタッフがいなかったり時間がなかったりする貧しさが、逆に彼のファンタジーを破れかぶれにして、そこに「軽さ」が生まれていた気がする。ところが「ナイトメア〜」が意外に成功したことにより、「コープス・ブライト」の製作では、その美的ファンタジーを完璧に、一点のラフさもない程に作り込める「芸術家」になってしまったのだと思う。作家主義、と言うべきなのだろうか?いずれにせよ、この「美的な芸術家」は、その「美的な芸術家」像というイメージ自体に窒息しかねない。


たぶんこの映画に必要なのは、精巧に彫刻された「作品(のイメージ)」を、もう一回バラバラに壊してしまう勢いで、そうでないからこそ、面白くもなければ到底芸術だなんて言えない中途半端な「作品」に納まってしまっている。一番近道なのは、制作期間を1/3にすることで、いくらなんでもこの作品に10年はかけすぎだろう。