相米慎二の「ションベン・ライダー」をDVDで見たのは実は年末だ。最初、そのあまりといえばあまりの80年代臭さに仰け反ってしまい、もう勘弁してほしいと布団をかぶりたくなったのは、まぁ自分が80年代に10代という致命的に恥ずかしい時期をすごしてしまっていたことの照り返しなのかもしれない。冒頭の河合美智子の「ボクは女じゃないゾ!」みたいな台詞でほぼノックダウンを食らってしまい、合間合間の字幕の「〜なのダ」で悶死しそうになり、ヤクザの宴会でやはり河合美智子がふり付きで歌うマッチ(これでわからない人はわからなくて良い)の歌で爆笑してしまった。


そして、見終わって、いや恥ずかしい映画だったとまとめて頭の倉庫に倉入りさせた、筈なのだが、これがちっとも消えていかない。まずマッチの歌がいつまでもループしてしまい、下手をすると口ずさみかねない。そして、それを切っ掛けに、ひたすらに取り留めのない様々なシークエンスがくり返し思い出されては延々再生されて、一体なんなんだこの感覚は、と本気で考え始めた。まとまっていなしいし、恐らくまとまりようもないが、取りあえず書いておく。そうしないといつまでも引張ってしまいそうだ。


作品を「見返す」のではなくて頭の中で何回も何回も思い出す、こういった作業で映画について考えることは当然危険で、記憶というのは全般にそうだが思い返すたびに捏造され変性していくものだろうから、僕は今や「ションベン・ライダー」のシーンをまともに記述できない。だからこの文章中で出て来るシーンの描写は既に描写ではないのだけど、こういった「記憶の再生」を繰りかえしている内に見えてきたのは、僕がこの映画を最初に見た時に受けた、名状しがたい感覚の骨格のようなもので、そこからはまず80年代臭さが抜け落ち、物語りや意味内容が抜け落ちていって、残ったのは凄く抽象的な運動感覚だった(だからこそ、どんなに気になってもDVDを見返す、という事はあえてしなかった)。そして、その運動感覚が、何かほとんど絵画的なもののように思えて来た。


ションベン・ライダー」は、とにかく3人の少年少女を中心に、登場人物達が延々と写り続け、動き続ける。有名な長回し、ことに木場でヤクザと子供達、女教師が走り、歩き、木の上から水中に落ち、這い上がっては銃が撃たれ、その様子が微妙な距離を保ったカメラのややゆっくりとした横移動によって写されていく様は、なんだかもう、そのこけつまろびつ行く画面内の人物達が、物語りから剥離して純粋に動きそのものと化してしまったかのように思い起こされる。その、ほとんど単なる要素となった人物個々が、筆のタッチのように見えてくる。「ションベン・ライダー」には全体、という強固な枠組みはほとんど存在しない。物語りは長い長いシーンの積み重ねの中で希薄化していくし、そんな中で少年少女たちはただ跳んだりはねたりうずくまったり倒れこんだりしていく。それらの断片の運動が自立的に進行してゆく。


こういった感覚は、例えばフラ・アンジェリコの初期の板絵に見られる、14世紀のイタリアの都市を俯瞰で描いた横長の絵画に近い感覚だ。また、アッシジの聖フランチェスコ教会上堂のジオットの壁画「聖フランチェスコの生涯」の連作にも近い。さらにカルミネ教会のブランカッチ礼拝堂壁画なども思い起こされる。そこではずーっと横に展開してゆく画面の中で、人物達が各シーンにおいて様々な仕種を見せながら、それが連続して見られることであるリズムを刻み運動感覚を与えはじめる。更に抽象化すれば、マチスの画面に配される様々な要素の断片が連合していく感じ、あるいはサイ・トゥオンブリの、ただ画面を走っていく筆跡のスピード感とか、中村一美の絵画における、上下・左右・斜とキャンバスに絵の具が引かれていく様まで想起される。


もちろん映画は絵画ではないし、絵画は映画ではない。しかし、これらの作品が与える、諸要素が各個に様々な運動とリズムを展開させながら、それらが異なる性格を保ちつつ緩やかに連合して、ふと(かりそめに)一つの「作品」を成立させてしまう、といった現象は、たぶんどこかで共通項を持つのだ。「ションベン・ライダー」で、やはり橋をわたりながら追いかけっこをする主人公たちとヤクザのシーンがある。画面を横切る川があり、奥から手前にかけて橋がある。向こうから人物達が走ってきて、相互に速度や色彩(衣装の色)が異なりながら、しかし逃げる/追うという関係性は途切れる事なく、その中で走ったり、橋から川に飛び込んだり、浮上してきたり、後を追ったりしてゆく。


ここでこのシーンを成り立たせているのは、実は追跡/逃走といった“主軸”の緊張感ではなく、むしろその反対の、どこかユーモラスに弛緩したロングショットの引いた構図の中で、てんでばらばらに動き回るようでありながら、しかしとりあえずは追跡/逃走というラフな枠組みの中で関係しあっているという、凄く不思議な何かだ。誰かは手前を走っており、誰かは橋によじ登っていて、誰かは既に川面に落ちていて、誰かはまだ向こう岸にいる。何重ものレイヤーがはらはらと分離しそうにありながら、しかしそれらが、一体何が目的だか忘れられそうになる「逃走/追跡」という関係の中で展開してゆく。


この映画が与える「作りっぱなしな感じ」は、放っておけば、もう各部分部分がばらばらと分解してしまって映画としての体をなさないのではないか、というくらいな危うさを持っている。正直、よくこんなメチャクチャなものを全国で劇場公開したものだ。僕がここで書いたのは、およそ心理とか情動とかを無視したもので、相米作品からそういったものを抜いてしまったら話しにならない、という人がいるかもしれないが、むしろそういった「少年少女の危うい心理」みたいな言い方で隠れてしまう事の方が多いように思う。むしろ僕が言ったような、即物的で表面的な「動き」の積み重なりから結果的に「少年少女の危うい心理」とかが構成されているのではないか(正直、この映画の登場人物たちに、人格的一貫性は必要不可欠なものではないのではないか)。